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《気になる》殿様と鼠小僧 松浦静山『甲子夜話』の世界

職場にあった週遅れの「週刊新潮」を読んでいたら、旧平戸藩主・松浦 (まつら) 家42代目跡継ぎの結婚に関する記事がありました。
松浦静山の子孫ですね。松浦静山は記事の中では「甲子夜話」の著者として紹介されています。

松浦静山というと「松浦屏風」、そして武術書「剣談」に出てくる「勝ちに不思議の勝ちあり。負けに不思議の負けなし」が思い浮かびますが、「甲子夜話」は知りませんでした。それで「甲子夜話」を読んでみたいと思って調べていたところ、この本に行き当たりました。
「甲子夜話」自体は東洋文庫に全20巻がありますが、この本はそのダイジェスト版として、そして江戸の社会史を知る本として面白そうです。

 

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《気になる》古事記 いのちと勇気の湧く神話

最近古事記の解説本をよく見かけます。やはり編纂1300年を迎えたからでしょうか。
古事記に出てくる物語は、絵本か何かで読んだり、教科書に出てきたり、あるいは家族から聞いたりしていくつか知っていますが、それらはみんな断片的なものだったりします。
もしかすると、古事記由来と知らない物語もあるかもしれません。

古典に関しては解説書や入門書ではなく、できるだけ原典に当たりたいと思います。あらかじめ誰かが解説・解釈したものよりも、原典の方が楽しみも得られるものも「濃い」と思うから。
そうではあるのですが、この本は古事記をネタにしたエッセイとして、軽く楽しむのによさそうです。

古事記だけでなく旧約聖書も読んでみたいと思います。どちらも歴史や宗教などと離れたところで、壮大な物語として興味があります。

 

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本の「よりよい読み方」について〜再読:強く生きるために読む古典

今年初め、「強く生きるために読む古典」という本を読みました。

 

本は、頼れる仲間〜強く生きるために読む古典 – 書肆小波

 

 

 

 

当初は著者のストレートな真情の吐露に圧倒されっぱなしでした。
今改めて読み返してみて、この本は「本についての本」であるだけではない、「生き方を示す本」であることを強く感じました。

この本で取り上げられているのは以下の9冊(作品)です。

 

  • 『失われた時を求めて』(プルースト)
  • 『野生の思考』(レヴィ=ストロース)
  • 『悪霊』(ドストエフスキー)
  • 『園遊会』(マンスフィールド)
  • 『小論理学』(ヘーゲル)
  • 『異邦人』(カミュ)
  • 『選択本願念仏集』(法然)
  • 『城』(カフカ)
  • 『自省録』(マルクス・アウレーリウス)

 

それぞれについて、著者がどういう状況にあるときに読み、自分が何をそこから得たかが書かれています。
著者の考えをいくつかひろってみると

本当に「知る」というのは、それについてかけがえのない体験をすること、それとともに切実な時間を過ごすこと、それを「事件」として受け止めることだ。
(p30「『失われた時を求めて』ぼくは彼女を知っている」)

 

ブリコラージュという方法を用いれば、ぼくもまた、何度でも敗者復活戦を戦える気がする!
(p46「『野生の思考』半端で役に立たない、経験のゴミ捨て場」)

 

そして、もし「場違いなこの世界」を受け入れられたなら、そのときは、それまで「場違い」感ゆえに乗れなかった行為や、意味も価値も感じられなかった物事に、親しみや喜び、いとおしさや美しさを感じることだろう。

(中略)

執着もせず、拒絶もしない、また、冷淡とも違う。そんな優しい距離感のある関わり方、つきあい方が、ぼくらにも、きっとできるようになる。
(p134『異邦人』ポジティブな思想)

 

こういった文章から著者の生き方を無理矢理一言でまとめると「誠実に生きること」になる気がします。非常に野暮ではありますが。
著者は自分のことを「できそこない」と言います。「できそこない」の人がいかに生きていくか、という人生論にもなっているのだけど、では「優良」な人にはこの本の示すものは役に立たないのでしょうか?
そんなことはない、と思います。
「優良」な人だって、今の状況では「優良」でいられても、別の局面に遭遇して自分が「実はできそこないだった」と悟るかもしれない。落とし穴のない人生なんてないのだから。
もちろん「できそこない」の人について、この逆の状況だって考えられる。「できそこない」の人はどんなときでもどこまで行っても「できそこない」か、というと、きっとそんなことはない。

落とし穴に落ちたとき、そこから這い出して生を続けるために、あるいは順調なときでも不意に足下をすくわれることを極力避けるために必要なことは、まさに「誠実に生きること」なのではないか。

そしてもう一つ、この本からわかることは「偏見なく本を読むこと」「自分の考えで本を読むこと」の大切さ。
著者は本を読むことについて

 

ぼくは本を、自分が生き延びる助けになるように読む。無能で不器用で余裕がないから、それしかできない。
(中略)
けれども、「できそこない」のぼくに必要なのは、そんな読み方なのである。
(p11「武器と仲間」)

 

と書いています。この続きには、こんな文章があります。

 

たとえば、自分が考えていることや感じていること、あるいは使っている言葉が、どうしても周囲の人々と一致しないことがある。話をすり合わせようと気を使えば使うほど、ズレは決定的になっていく。

(中略)

そんなとき、マルクスの『資本論』を思い出してはいけないか。

(中略)

『資本論』は、もちろん経済学の古典だが、ぼくは勝手に「意思の疎通が難しい状況での対話の進め方」をおそわっているのである。

(p12「マルクスの『資本論』」)

 

こういう読み方に対して

「『○○』という作品はそういう風に読むものではない」

という人もいるでしょう。それが『資本論』のような本ならなおさら。
しかしどんな本にしても「絶対的に正しい読み方」と言うのはないのではないか。「よりよい読み方」はあるかもしれないけど「正しい読み方」はないのかもしれません。
読んだ本を本当に「自分のもの」にするには、そういう予備知識をすべて取っ払った上で「自分はどう感じるか、どう考えるか」だけに向き合っていく必要があるのかもしれません。自分の感じたこと、考えたことに誠実に本を読む。
著者の本の読み方は、自分にとっての「よりよい読み方」を極めたものだと言えるでしょう。
特に古典を読もうとするとき、実際これはかなり難しいことだと思います。
古典でなくても、ある本についてのレビューなどを読んでしまうと無意識に自分の読み方がそれに引っ張られてしまうことがあると思います。
すでにある評価を頭に置いた上での読書もひとつの読み方ではあるけれど、本当にその本に向き合うことにはならないかもしれません。

この本のもとになった日経ビジネスオンラインの連載「生きるための古典 〜No classics, No life! 」に取り上げられた本を少しずつ読んでいます。それは今後も続けていきますが、今回この本から得た「誠実に生きる」「偏見なく本を読む」も、これから自分が生きていく上でのキーワードにしていきたいと思います。

強く生きるために読む古典 (集英社新書)
岡 敦
集英社 (2011-01-14)
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めまいがするような世界〜さかしま

岡敦さんのコラム「生きるための古典 〜No classics, No life!」に紹介されていてた本です。
ここで見なかったら、おそらく手に取ることはなかったでしょう。

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22年ぶりの大ニュース〜カフカ / 夜の時間

1ヶ月半ほど前にtwitterで復刊情報を知ってから、発売をずっと待っていた「カフカ / 夜の時間」、そして新刊「カフカノート」。今週始めにAmazonから届きました。

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「知的生産」ってなんだろう〜知的生産の技術

今頃読んでいるのかと言われそうですが。
知的生産に関する古典ともいえる本。昨今のライフハックに通じる、しかしずっと力強く普遍的な話が書かれています。

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魅惑の言葉に出会う〜野生の思考

古典へのチャレンジで読み始めた野生の思考。
タイトルだけは昔から知っていましたが、これも実際に手に取ったのは「生きるための古典 〜No classics, No life!」がきっかけです。

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手強い相手に立ち向かってみた〜論理哲学論考

読む前に知人から「これは手強いぞ」といわれた本。毎日少しずつ読んで、読了まで2ヶ月半かかりました。

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本は、頼れる仲間〜強く生きるために読む古典

日経ビジネスオンラインの連載「生きるための古典 〜No classics, No life! 」から抜粋・再構成された本です。

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自分にとっての古典とは何か (追記あり)

先日《書評》本との向き合い方の1つのモデル〜読書と社会科学というエントリを書きました。これを @claclapon さんに取り上げていただきました。ありがとうございます。

読書することで自分の考えをつくっていく

こちらに「自分にとって「古典」に当たる本」について書かれています。自分がエントリを書いたときは「自分にとっての古典」には考えが及ばなかったので、考えてみました。

自分にとって「これぞ古典」という本は、高橋悠治の 「カフカ・夜の時間—メモ・ランダム」です。今では図書館か古書店で探すしかない本。発売されて間もない頃に購入し、今まで何度読み返したかわからない本です。何度も読み返したためにかなり汚くなりましたが、今でも大切に持っています。

高橋悠治を知ったきっかけは、おそらく坂本龍一との対談集「長電話」(まだ持っている)。これを読んだときはまだ「千のナイフ」は聴いていなかったと思うので。

「千のナイフ」収録の「グラス・ホッパーズ」で坂本龍一と高橋悠治がピアノの連弾をしています。
余談ですが、この曲を聴いた友人 (ピアノを長くやっている) が「下手な方が坂本龍一か?」と言っていました。

タイトルに「メモ・ランダム」とあるように、様々な形式の文章が詰まっています。中心となるのは音楽論や作曲ノートなのですが、詩のような作品、エッセイ、他の音楽家のコンサート等のために寄稿したと思われる文など。
文体は、二十歳くらいの妙に感覚がとがったときに読むとものすごいはまる感じ。読んだときは強烈にはまったものです。現在は当時に比べれば冷静に読んでますが、読み返すたびに発見がある本です。
印象に残る言葉はたくさんあるのですが、2つ引用します。

1つは


平和という名詞には動詞がない。
たたかうことは行為なのに。平和は不在によって定義できるだけ。
人間にとっての平和は戦争の前と戦争の後でしかない。
いまが平和ならやがて戦争になるだろう。

(p108 「レナード・バーンステインの『平和のためのミサ』によせて」)

そしてもう1つ

…自分用のノートがある。本からの抜き書き、音やリズムの思いつきにそえたメモ、演奏のしかたについての走り書きなど。
ノートは最後のページまで使うことはなく、途中で放棄する。何年かたつと、別なノートにまた、おなじようなことを書く。ここには蓄積がない。わずかな思いつきの変奏があるばかりだ。本からとった他人のことばも、姿を変え、意味を変えて、別なものになっていく。
このノートは方法論のためだと、ずっと思っていた。だが、目標や方法を信じなくなったあとでも、やはりノートはつづく。そこで、気がついた。これは、音楽の前の、朝の祈りのようなものだった。
(p134「音に向って」)

この本はこれからも読み返していきたいし、ずっと大切にしたい。

カフカ・夜の時間—メモ・ランダム
高橋 悠治
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2010年4月18日 18:46 追記

「レナード・バーンステインの『平和のためのミサ』によせて」の引用ですが

「たたかうことは行為なのに。平和は不在によって定義できるだけ。」

という箇所を

「たたかうことは行為なのに。戦争は不在によって定義できるだけ。」

と記載しておりました。本文は修正済です。意味がまるで逆になっていました。
申し訳ありませんでした。

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