手強い相手に立ち向かってみた〜論理哲学論考

読む前に知人から「これは手強いぞ」といわれた本。毎日少しずつ読んで、読了まで2ヶ月半かかりました。

読むきっかけは、日経ビジネスオンライン「生きるための古典 〜No classics, No life!」。この連載は、これから古典を読んでいこうと考えている自分にはちょうどよいガイドになっています。岡敦さんの真摯な文章も大好きです。

今回はノートを作りながら読んでいきました。これまで読書ノートは作ったことがなかったのですが、この本はノートを取りながら読んだ方がよさそうと感じたので。
1日10ページほどしか読んでいなかった (読めなかった) ので、日付と読んだページの範囲、出てきた言葉とそれに対する疑問点、特に気になった項目について書いていました。
論理式が出てきた箇所では、実際にその論理式をノートに書き出して確認したりもしています。
本当は、読んだ箇所の分析まできちんと書ければいいのでしょうが、自分には分析できるだけの能力がない(^^;

そうやって時間をかけて読んでみて感じたこと。この本は何かについて語る「ことば」についてひたすら突き詰めた内容だと思った。そうして語るための言葉を突き詰めていっても、結局どうやっても言葉で表現できないものは残る。そういうものに対して最後の「語り得ぬものについては、沈黙せねばならない」が来るのかと思いました。

何度か「ナンセンス」という言葉が出てきます。
6.54には

私を理解する人は、私の命題を通り抜け—-その上に立ち—-それを乗り越え、最後にそれがナンセンスであると気づく。そのようにして私の諸命題は解明を行なう。(いわば、梯子をのぼりきった者は梯子を投げ棄てねばならない。)

とあります。その部分について、ノートにこんなことを書きました。

なぜそう思ったかはうまく説明できないのですが、直感的にそう感じたのです。

論理哲学論考の最後の項目・7の

語り得ぬものについては、沈黙せねばならない

を読んで連想したのが、高橋悠治「カフカ / 夜の時間」に出てきたこの言葉。

 ちいさい音、たよりない声、息が音に変わる瞬間からはなれるな。きくひとのからだからちからがぬけていくような音楽だけが、魂の出口をあけてくれる。きこえる音だけでうまくやろうとすると、人間だけのコミュニケーションのレベルにとじこめてしまう。古代人はそれを人間の思いあがりと呼んだ。名人芸、それもひとつの限界だ、とマセダが言っていた。(引用者注: 「マセダ」は作曲家ホセ=マセダのこと)

 人間的なうた、そこからはこの魂の自由をかんじられない。逆に、遠いものと語り合う音を手にするには、沈黙に耐える以外にないが、そんなことが、だれにできるのだ。
(p45「『カフカ』ノート」)

「語り得ぬものについては、沈黙せねばならない」というウィトゲンシュタインの言葉と、「遠いものと語り合う音を手にするには、沈黙に耐える以外にない」という高橋悠治の言葉の間に、自分には根底でつながる何かがあるように感じてならないのです。

この本 (岩波文庫版) のカバーには

極度に凝縮されたそのスタイルと独創的な内容は, 底知れぬ魅力と「危険」に満ちている。

とあります。わたしはそもそもこの本をちゃんと読めたとは思ってないし、内容も理解できなかった。理解できなかったけど、この本から放たれる「奇妙な魅力」は感じ取ることができました。
何度も何度も読めば、いつかわかるようになるかもしれない。また挑戦します。

論理哲学論考 (岩波文庫)
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カフカ・夜の時間—メモ・ランダム
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あとがき
この本で論考されていることは、数学や物理学と深く結びついていることを再認識し、数学と物理をやり直したくなりました。ちなみに数学も物理も、好きだけど点数が悪い科目でしたw

読書ノートについても作り方は色々あるでしょうが、こういう古典哲学を読むときにはできるだけノートを作ってみて、作り方も色々工夫してみたいです。
ただ、ノートを作ること自体が目的化しないようにはしたい。あくまでその本を読んで、内容を自分なりに咀嚼して納得する (または納得できないことに納得する) ことが主目的なので。

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