本の「よりよい読み方」について〜再読:強く生きるために読む古典

今年初め、「強く生きるために読む古典」という本を読みました。

 

本は、頼れる仲間〜強く生きるために読む古典 – 書肆小波

 

 

 

 

当初は著者のストレートな真情の吐露に圧倒されっぱなしでした。
今改めて読み返してみて、この本は「本についての本」であるだけではない、「生き方を示す本」であることを強く感じました。

この本で取り上げられているのは以下の9冊(作品)です。

 

  • 『失われた時を求めて』(プルースト)
  • 『野生の思考』(レヴィ=ストロース)
  • 『悪霊』(ドストエフスキー)
  • 『園遊会』(マンスフィールド)
  • 『小論理学』(ヘーゲル)
  • 『異邦人』(カミュ)
  • 『選択本願念仏集』(法然)
  • 『城』(カフカ)
  • 『自省録』(マルクス・アウレーリウス)

 

それぞれについて、著者がどういう状況にあるときに読み、自分が何をそこから得たかが書かれています。
著者の考えをいくつかひろってみると

本当に「知る」というのは、それについてかけがえのない体験をすること、それとともに切実な時間を過ごすこと、それを「事件」として受け止めることだ。
(p30「『失われた時を求めて』ぼくは彼女を知っている」)

 

ブリコラージュという方法を用いれば、ぼくもまた、何度でも敗者復活戦を戦える気がする!
(p46「『野生の思考』半端で役に立たない、経験のゴミ捨て場」)

 

そして、もし「場違いなこの世界」を受け入れられたなら、そのときは、それまで「場違い」感ゆえに乗れなかった行為や、意味も価値も感じられなかった物事に、親しみや喜び、いとおしさや美しさを感じることだろう。

(中略)

執着もせず、拒絶もしない、また、冷淡とも違う。そんな優しい距離感のある関わり方、つきあい方が、ぼくらにも、きっとできるようになる。
(p134『異邦人』ポジティブな思想)

 

こういった文章から著者の生き方を無理矢理一言でまとめると「誠実に生きること」になる気がします。非常に野暮ではありますが。
著者は自分のことを「できそこない」と言います。「できそこない」の人がいかに生きていくか、という人生論にもなっているのだけど、では「優良」な人にはこの本の示すものは役に立たないのでしょうか?
そんなことはない、と思います。
「優良」な人だって、今の状況では「優良」でいられても、別の局面に遭遇して自分が「実はできそこないだった」と悟るかもしれない。落とし穴のない人生なんてないのだから。
もちろん「できそこない」の人について、この逆の状況だって考えられる。「できそこない」の人はどんなときでもどこまで行っても「できそこない」か、というと、きっとそんなことはない。

落とし穴に落ちたとき、そこから這い出して生を続けるために、あるいは順調なときでも不意に足下をすくわれることを極力避けるために必要なことは、まさに「誠実に生きること」なのではないか。

そしてもう一つ、この本からわかることは「偏見なく本を読むこと」「自分の考えで本を読むこと」の大切さ。
著者は本を読むことについて

 

ぼくは本を、自分が生き延びる助けになるように読む。無能で不器用で余裕がないから、それしかできない。
(中略)
けれども、「できそこない」のぼくに必要なのは、そんな読み方なのである。
(p11「武器と仲間」)

 

と書いています。この続きには、こんな文章があります。

 

たとえば、自分が考えていることや感じていること、あるいは使っている言葉が、どうしても周囲の人々と一致しないことがある。話をすり合わせようと気を使えば使うほど、ズレは決定的になっていく。

(中略)

そんなとき、マルクスの『資本論』を思い出してはいけないか。

(中略)

『資本論』は、もちろん経済学の古典だが、ぼくは勝手に「意思の疎通が難しい状況での対話の進め方」をおそわっているのである。

(p12「マルクスの『資本論』」)

 

こういう読み方に対して

「『○○』という作品はそういう風に読むものではない」

という人もいるでしょう。それが『資本論』のような本ならなおさら。
しかしどんな本にしても「絶対的に正しい読み方」と言うのはないのではないか。「よりよい読み方」はあるかもしれないけど「正しい読み方」はないのかもしれません。
読んだ本を本当に「自分のもの」にするには、そういう予備知識をすべて取っ払った上で「自分はどう感じるか、どう考えるか」だけに向き合っていく必要があるのかもしれません。自分の感じたこと、考えたことに誠実に本を読む。
著者の本の読み方は、自分にとっての「よりよい読み方」を極めたものだと言えるでしょう。
特に古典を読もうとするとき、実際これはかなり難しいことだと思います。
古典でなくても、ある本についてのレビューなどを読んでしまうと無意識に自分の読み方がそれに引っ張られてしまうことがあると思います。
すでにある評価を頭に置いた上での読書もひとつの読み方ではあるけれど、本当にその本に向き合うことにはならないかもしれません。

この本のもとになった日経ビジネスオンラインの連載「生きるための古典 〜No classics, No life! 」に取り上げられた本を少しずつ読んでいます。それは今後も続けていきますが、今回この本から得た「誠実に生きる」「偏見なく本を読む」も、これから自分が生きていく上でのキーワードにしていきたいと思います。

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