自分にとっての古典とは何か (追記あり)

先日《書評》本との向き合い方の1つのモデル〜読書と社会科学というエントリを書きました。これを @claclapon さんに取り上げていただきました。ありがとうございます。

読書することで自分の考えをつくっていく

こちらに「自分にとって「古典」に当たる本」について書かれています。自分がエントリを書いたときは「自分にとっての古典」には考えが及ばなかったので、考えてみました。

自分にとって「これぞ古典」という本は、高橋悠治の 「カフカ・夜の時間—メモ・ランダム」です。今では図書館か古書店で探すしかない本。発売されて間もない頃に購入し、今まで何度読み返したかわからない本です。何度も読み返したためにかなり汚くなりましたが、今でも大切に持っています。

高橋悠治を知ったきっかけは、おそらく坂本龍一との対談集「長電話」(まだ持っている)。これを読んだときはまだ「千のナイフ」は聴いていなかったと思うので。

「千のナイフ」収録の「グラス・ホッパーズ」で坂本龍一と高橋悠治がピアノの連弾をしています。
余談ですが、この曲を聴いた友人 (ピアノを長くやっている) が「下手な方が坂本龍一か?」と言っていました。

タイトルに「メモ・ランダム」とあるように、様々な形式の文章が詰まっています。中心となるのは音楽論や作曲ノートなのですが、詩のような作品、エッセイ、他の音楽家のコンサート等のために寄稿したと思われる文など。
文体は、二十歳くらいの妙に感覚がとがったときに読むとものすごいはまる感じ。読んだときは強烈にはまったものです。現在は当時に比べれば冷静に読んでますが、読み返すたびに発見がある本です。
印象に残る言葉はたくさんあるのですが、2つ引用します。

1つは


平和という名詞には動詞がない。
たたかうことは行為なのに。平和は不在によって定義できるだけ。
人間にとっての平和は戦争の前と戦争の後でしかない。
いまが平和ならやがて戦争になるだろう。

(p108 「レナード・バーンステインの『平和のためのミサ』によせて」)

そしてもう1つ

…自分用のノートがある。本からの抜き書き、音やリズムの思いつきにそえたメモ、演奏のしかたについての走り書きなど。
ノートは最後のページまで使うことはなく、途中で放棄する。何年かたつと、別なノートにまた、おなじようなことを書く。ここには蓄積がない。わずかな思いつきの変奏があるばかりだ。本からとった他人のことばも、姿を変え、意味を変えて、別なものになっていく。
このノートは方法論のためだと、ずっと思っていた。だが、目標や方法を信じなくなったあとでも、やはりノートはつづく。そこで、気がついた。これは、音楽の前の、朝の祈りのようなものだった。
(p134「音に向って」)

この本はこれからも読み返していきたいし、ずっと大切にしたい。

カフカ・夜の時間—メモ・ランダム
高橋 悠治
晶文社
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2010年4月18日 18:46 追記

「レナード・バーンステインの『平和のためのミサ』によせて」の引用ですが

「たたかうことは行為なのに。平和は不在によって定義できるだけ。」

という箇所を

「たたかうことは行為なのに。戦争は不在によって定義できるだけ。」

と記載しておりました。本文は修正済です。意味がまるで逆になっていました。
申し訳ありませんでした。

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