カテゴリー: 読書記録

《書評》「作家」と「凡人」の間にあるものは〜ショート・サーキット

「ショート・サーキット」は「短絡」のことです。佐伯一麦 (さえきかずみ)の初期作品を集めた短編集。佐伯一麦は干刈あがたのエッセイ集どこかヘンな三角関係で「無言微笑の人」として登場していましたが (当時はまだ電気工の仕事もしていた)、作品を読んだのは初めて。

若くして父になった主人公が電気工として都市の裏側に入り込み、家族を養う日々、そして家族の成り立ちから解体までが書かれた短編集。家族の生活と、主人公が仕事であちこち飛び回る日々の描写の中で、なぜか強く印象に残った場面があります。

1つめは、結婚した直後に住んだ「崖っぷちのアパート」のベランダ風呂に守宮が出た場面。守宮をつかまえ、風呂の窓の外に貼り付けて、二人で風呂の中から眺める様子が奇妙に鮮やかだった。

そしてもう1つ、ある団地の空き家の修理で、家賃滞納の末立ち退きをくらい、その後合鍵を使って不法にその部屋に住み着いていると思われる元住民を追い出す場面。トイレのスイッチを取り替え、点灯確認しようとトイレの扉を開けようとすると開かない。何度か強く引っ張っても開かない。中に人がいると直感した彼は、トイレの中に向かって

「そんなところに隠れていないで出て行けよ。おれはもう一軒修理をしてからまたここに戻って来る。そのときもまだここにいたら、管理人につきだしてやるからな」

と一人言のように声をかけ、次の現場に行く。30分ほどして戻ってきたら、トイレの扉はうそのように簡単に開いた。トイレの中に人が潜んでいた気配はない。彼は自分の幽霊を見たような気がした。

本の最後に収められた「木の一族」という作品の中にこんな一節があります。

…たとえ、自分たち夫婦の諍いや、子供達の病気のことを書いたとしても、それは生きていく人間のあたり前の姿だと思っているからだ。確かに自分たちは、未熟な者同士の諍いの果てに、妻がガス栓を捻って始まった夫婦だったが、それを克服して生きて来たことを書き記すことは恥知らずでも何でもない。電気工事の仕事とともに家族を生かしてきた、その自分の仕事に誇りを持ってきたし、これからだってずっとそうだ。
(引用者注:「子供達の病気」とは、長女の学校緘黙症、長男の川崎病のこと)

これは家族をモデルにして小説を書き、新人賞を取った主人公が、妻にこれ以上家族のことを書かないでほしい、書きたいなら離婚してほしい、と迫られた場面の直後に出てくる、主人公の独白です。

「それを克服して生きて来たことを書き記すことは恥知らずでも何でもない。」という一節を読んで、こう思えること、思って書けることが作家と凡人の分かれ目なのかもしれない、と思いました。

「私小説」ってあんまり好きじゃないんだけど、彼の作品なら読めるかもしれない、と思った。そこに書かれる彼や家族の姿をどう思うかはともかくとして、私小説独特の、変なてらいのようなものを感じなかったので。

ショート・サーキット—佐伯一麦初期作品集 (講談社文芸文庫)
佐伯 一麦
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《書評》ただ、絵に見とれる〜まっくら、奇妙にしずか

この絵本は、作者アイナール=トゥルコウスキィの大学の卒業制作で作られたものだそうです。トゥルコウスキィは、ハンブルグ応用化学大学のデザイン=メディア=情報学部でイラストレーションの講座を受講した人です。

訳者あとがきで紹介されているストーリーはこんな感じ

どこからともなくやってきた見知らぬ男。正体のさだかでない「よそ者」に町の人々は容赦ない視線をあびせ、ふくれあがる好奇心をおさえきれない。不思議なのは、その男のなりわいだ。空をゆく雲をつかまえて、そこから雨ならぬ魚を降らせている。だれも考えてみたこともない、雲からの漁り(いさり)。その秘密に気づくや、人々はむらむらと欲望をつのらせる。嫉妬と敵意をまるだしにして、男を追い出し、われもわれもとおそらくは彼らがけっして試みるべきでなかったことを試みる。その暴走が、自分たちの破滅につながることを知りもしないで—-。

特筆すべきは絵の美しさ。シャープペンシルだけで描かれたという絵の陰影の美しさ・緻密さはすごい。こんなものどうやって描いたのだ、と言いたくなる。例えば「望遠鏡をのぞく男の手の甲に浮かび上がる静脈」までが、非常に繊細に描かれているのです。
そして、「雲をつかまえる道具」「雲」「魚」他、出てくるあらゆるものの形の面白さ。独創的でグロテスクで、美しい。

絵だけでなくストーリーについても。あらすじは前出の通りですが、静かだけど実は怖い、という怪談めいた面もあり、一種の終末論でもあり、救いのない話だけれど、妙に心に残る話だった。

これは絵本ですが、完全に大人向けに描かれたものです。絵もややグロテスクな感じがするので、大人でも好き嫌いが分かれるかもしれない。でもわたしは、とても美しい絵だと思ったし、久々に「絵に見とれる」体験をしました。

まっくら、奇妙にしずか
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余談
「モノクロームの絵の美しさに見とれる」というと、たむらしげる「メタフィジカル・ナイツ」を思い出します。これは1990年に発売されたCGの画集で、当時としてはかなり珍しかったと思います。モノクロームのCGに短いストーリーを組み合わせた構成で、とても美しい絵でした。今、手元にこの本がないのが残念。

メタフィジカル・ナイツ
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《書評》穴ではなく、ドーナツを見よう〜とにかくやってみよう──不安や迷いが自信と行動に変わる思考法

「穴ではなく、ドーナツを見よう」は、この本の中に出てきた標語です。欠けているものではなく恵まれているものを探そう、という趣旨

この本の前書きに

初めてのことに思い切ってチャレンジするときや、これまでとは違うやり方で何かをするとき、誰もが不安を感じます。そのせいで前に踏み出せなくなってしまうこともよくあります。
これを乗り越えるカギは「不安は感じてあたりまえ、とにかくやってみよう!」です。

とあって、それでこの本を手に取ってみました

この本はなぜ不安になってしまうのか、の解説から始まり、苦痛から解放される方法、ポジティブになるトレーニング、パワーを引き出す段階まで、いくつかのトレーニングや図表を挟んで進んでいきます。
例えば「『苦痛からパワーへ』の言葉づかい」という図表があるのですが、これはコピーして手帳に貼っておこうと思っています。これはついついネガティブに言ってしまいがちなことをポジティブに言い換えるための例みたいなものです (「もしこうでさえあれば」→「この次は」など)
トレーニングで気になったものは「内なるパワーを感じるためのエクササイズ」「お互いにプラスになる会話法」「たくさんの選択肢に気づく方法」「大きく受け入れる人間に近づくための5つのステップ」など。

この本で一番印象的だったのは「不安に思っていることの90%は実現しない」という言葉。
「だからネガティブになっても意味がない、落とし穴に落ちるときは落ちるのだから、落ちる前から落ちることを心配してもしようがない」ともとれるし、
「10%は実現するんだから気持ちをそれに向けておくべき、「落ちない」と思っていていきなり落とし穴に落ちるよりも、「落ちるかも」と警戒していて落ちた方が、実際にはけがが少なくて済む」、とも言えるかもしれない。
前者は「ポジティブ」な考え方だし、後者は「ネガティブ」な考え方ですね。例えが変ですが。後者をすぐに思い浮かべてしまうのは、やはり自分がネガティブな考えの持ち主だからだろうな。

前出の「『苦痛からパワーへ』の言葉づかい」の中に「『私のせいじゃない』→『すべて私の責任だ』」というのがあります。自分の身に起きていることはすべて自分の責任である、という考えは、自己啓発書でよく出てくる考え方ですね。わたしはこの考え方自体には賛成なのだけど、その一方でこうも思う。
自分の身に起きていることがすべて自分に原因があるとすると、自分が人に傷つけられることも自分が悪い、自分を傷つける人は悪くない(なにしろ悪いのは自分なのだから)、ということになるのだろうか、と
例えば、職場で理不尽な扱いをされて苦しんでいる人がいるとする。その人が理不尽な扱いをされて苦しむのはその人に原因があるからだ、とすると、それは回り回って「相手に原因があれば、相手に理不尽なことをしたり傷つけてもいい」ということを認めることになりはしないか、と
誤解しないでいただきたいのですが、自分は「自分は悪くない、相手がすべて悪い!!」と言いたいのではありません。ただ、そういうことが成り立つ可能性があるのではないか、と思うだけです

そのことについての記述を、長くなりますが引用します

…ある生徒がこんな議論を持ちかけた。もしすべてに「イエス」と言うならば、すべてを受け入れることになる。すべてを受け入れてしまったら、世の中の間違いをただす行動ができなくなってしまうのではないか?
これに対して私はこう説明した。「イエス」と言うことはポジティブな行動であり、「ノー」と言うことはあきらめること。私たちは何かを変えられると思うときだけ、変化を起こそうと立ち上がることができる。たとえある状況に対して「ノー」と言ったとしても、その状況のおかげで成長する可能性には「イエス」と言える。自分の置かれた状況が絶望的だと思ってしまったら、ただ手をこまねいて、叩きのめされるままになるしかない。
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…難題にもチャンスが隠れているということに「イエス」と言っている。
「イエス」と言うことは、あきらめることではない。
「イエス」と言うことは、自分の信念のために立ち上がって行動することだ。それによってどんな運命が突きつけられようと、なんらかの意義や目的をつくりだせるだろう。

これは自分が思ったことに対する直接の答えではないかもしれない、けど、この点に言及している本は、わたしは初めて見た

わたしはこれまで、とにかくネガティブというか厭世的な考えの持ち主でした。親からも「おまえはなんでそんなに厭世的なんだ」と言われたこともあるくらい。
別に意図してネガティブだった訳ではないのだけど、しかし最近、ネガティブであることにも疲れてしまった。でもポジティブであり続けることは、これはこれでネガティブ以上に疲れてしまう。
だからと言うわけではないけど、自分はとにかくポジティブになりたいとは思わない、でも少なくとも「ネガティブではない」地点を目指したい。そういう地点を目指すにも、この本に出てきたいくつかのエクササイズは役に立ちそうです。

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《書評》ぐうの音も出ない〜水曜日は狐の書評

水曜日は狐の書評 —日刊ゲンダイ匿名コラム (ちくま文庫) (文庫)

「狐の書評」とは、1981年2月から2003年7月まで、日刊ゲンダイに週1回掲載された匿名新刊紹介コラムのことです。その書評の書き手が <狐> と表記されていました (コラム名は途中で何度か変わっているようです)。
日刊ゲンダイは読んだことがないけど、匿名書評家「狐」のことは、昔の本の雑誌で読んで知っていました。とにかく面白い書評だ、と紹介されていた

図書館で見つけて、読んでみることに。紹介されている本は200冊。1999年5月から2003年7月末までに書かれた書評で、小説・まんが・写真集・料理本など、ジャンルは様々。字数は1冊800字。自分が読んだことがある本は8冊。うち4冊がまんが

普 段本を読みながら、気になるところに付箋を貼っているのですが、今回は文章だけでなく「これは読んでみたい」と思った書名にも付箋を貼りまくりました。 貼ったのは61冊。おかげで文庫本がライオンになってしまった。そして、読んでいて楽しかった。知らない本に出会う楽しさだけでなく、純粋に「本を読む楽 しさ」を味わうことができた。

狐氏の1冊目の書評集「狐の書評」が行きつけの図書館閉架にあることがわかったので、今度借りようと思います

どうして彼 (文章から男性と思われる) は、こんな楽しい書評を書けるのだろう。ある書評を例にして考えてみます

取り上げるのは小林カツ代「料理上手のコツ」。狐氏は、小林氏の文章を高く評価しています。

本書は、料理をおいしくする基本のわざのあれこれにつき、カツ代流の知恵を込めて語る一冊。分かりやすい。イメージの喚起力が並でない。テレビの料理番組などで有名な著者ではあるが、文章家として広く知られているとはいえないだろう。それが惜しい。

引 用した文章の直前では、小林氏が「弱火」「煮含める」を説明した部分が引用されています。狐氏は小林氏の文章の特徴を「イメージの喚起力が並でない。」と 表現しています。わたしは狐氏の文章のイメージの喚起力もまた並でないと思う。「分かりやすい」と一言で言っても、何がどう分かりやすいのか、を短く的確 に伝えることは難しい。自分自身が「何がどう」をきちんとわかっていなくてはならないだけでなく、「何がどう」を誰にでもわかるように表現しないといけな いから。
なんか当たり前の結論に落ち着いてしまいますが、狐氏はその本を読んで要所を的確につかんだ上で、その要所を一読でわかるように伝えてい る。そしてなにより、本が好きな人なんですね。本に対する愛情が行間から伝わってくる。さらにその愛情におぼれることなく、的確に批評する (ここでは評価の文章を取り上げましたが、批判もあります)。きっと愛情と批評のさじ加減がとても上手いのだと思う。

もう一つ引用します。狐氏は川原泉をかなりひいきにしておられるようです。わたしもファンなので、ちょっとうれしい。

その川原泉「ブレーメンII (1)」の書評ページから。

自慢ではないが、一度くらいは引き倒してみたいほどに川原泉のマンガをひいきにしている。しいて分類するなら少女マンガと言うことになるが、たしかに、そんなものは敬遠するのが健康な大人の読者といえるだろう。読む本は選ばねばならない。人生はあまりに短いのである。
しかし何事にも例外というものがあるのが、これまた人生であろう。川原マンガこそはその例外中の例外、とりわけ、なかんずく、ことさら、別して、読まれる べき少女マンガなのである。…いかにも西洋的な (つまりは少女マンガ的な) 美男美女の顔が、純モンゴロイドの顔にくるくる変わる自己反省の深さが勘どころだ。
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…結末はまだ分からないが、馬鹿馬鹿しさ、脳天気さ、お気楽さ。まったく人生はあまりに短く、読む本は選ばねばならない。そしてこういう本こそ、選ばれるべきなのだ—-、呑気なフィクション (うそ、はったり) を遊んでみるためには。
(引用者注: 「ブレーメンII」はすでに完結しています)

わたしは「自己反省の深さが勘どころだ。」をよんで、膝を打ちました。自分が川原泉の絵に感じていたものはこういうことだったのか、こう表現すれば良かったのかと。

本を読んで、書評と称して好き勝手なことを書き散らしているだけの自分がこんなことを言うのはおこがましいのだけど、こういう文章が書けたら、と思う。本のことを的確に紹介し、文章そのものも面白い書評。道は果てしなく遠いけど、いろいろ挑戦していきたいと思います

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