カテゴリー: 書評
《書評》「趣味が悪い」と言ってしまえばそれまでだが〜夜露死苦現代詩
「夜露死苦」というのは、言うまでもなくヤンキーがよく使うフレーズです。著者はこのフレーズについて
なんてシャープな四文字言葉なんだろう。過去数十年の日本現代詩の中で、「夜露死苦」を超えるリアルなフレーズを、ひとりでも書けた詩人がいただろうか。
と書いています。
この本は「現代詩」と書かれているけど、いわゆるプロの詩人が書いた現代詩ではなく、街角に埋もれたリアルな言葉から「ほんとうにドキドキさせる言葉」をあぶり出そうとしています。
取り上げられているのは
- 寝たきり老人がつぶやいた言葉
- 死刑囚の俳句
- 玉置宏の話芸
- 32種類の「夢は夜ひらく」
- 暴走族の特攻服の刺繍
- ヒップホップ、ラップミュージック
- 知的障害者、統合失調症患者の詩
- エロSPAMの文面
- 湯飲みの説教
- 見せ物小屋の口上
など16種類。それに「あとがきにかえて」として、相田みつを美術館訪問記。これらの「詩」から遠く離れていると思われる言葉から「ほんとうにドキドキさせる言葉」を探そうとします。
タイトルにも書きましたが、正直言って「趣味が悪い」言葉も少なくない。でも、趣味は悪いけど、読ませられてしまう言葉が並ぶ。不謹慎ながら、面白いんだ。
そもそも人を引きつけるために発せられる言葉にしても、人にどう思われるかについて全く考えられていない言葉 (表現が適切じゃないかもしれないけど) にしても、すーっと自分のそばに寄ってきて、ぐいっと引っぱられる感じがする。
(エロSPAMといえば、たまに「あんたこんなことしなくても、まっとうなライターとして十分食っていけるよ」って文章がありますね)
面白いだけでなく、この本で初めて知ったことも多い。
例えば
- 玉置宏のナレーションが台本なしの話芸だったこと
- 分速360字見当で話すのがもっとも聞きやすい速度であること
- 喋りの間や、やりとりの基本は古典落語にあること
- 「夢は夜ひらく」という歌は32種類もあること (この本にはそのうち13種類の「夢は夜ひらく」が収録されています)
あと、ラッパーダースレイダーについて書かれています。
ラップやヒップホップは聞かないのでダースレイダーという人はこの本で知りました。インタビューの中で彼は
ダースレイダーがトレーニングとして自分に課しているのが、「部屋で音楽をかけて、ひとりでもとにかく毎日ラップする」こと。…そうやって「何時間もラップしているうちに、自分でも思っても見なかったラップがリズムに乗って出てくるんです。自分の中にこんな表現が眠ってたのかというようなフレーズが」。
:
:
「ラップは演奏でもあるわけですから、リズムなしだと結局、あとから書き直すことになるし。それに日本語としておかしいとしても、こう言ったほうが口はよく回るし、リズムには乗る、それをどうしていくのかを考えていると、日本語の可能性を追求していくことでもあるんだなと感じてます」
と話しています。これは魂の文章術に出てきたトレーニングに通じるものがあると思いました。ラップか文章かの差はあるけれど、とにかくおかしかろうとなんだろうと言葉を絞り出すことで、自分の中から新しい表現を呼び覚ます。
どんなことにせよ、表現したかったらとにかく表現する、出来を気にする暇があったら量をこなすのが大事なのですね。
ふと思ったよ。「リアルな言葉」と「リアリティのある言葉」って、どう違うのだろう。
《書評》薄くて鋭利な刃物を連想した〜志賀直哉 [ちくま日本文学021]
志賀直哉は、高校の教科書に出ていた「網走まで」しか読んだことがありませんでした。
ちくま日本文学はアンソロジーなので短編のみの構成です。これらを読んでみて、志賀直哉は怖い人だと思った。特にそれを感じたのが「剃刀」。客を殺してしまった床屋の話なのだけど、冒頭から殺人が起きるまでの主人公の描写も、淡々としているのに心理などが明確にわかり、特に殺人場面はごく短い文2つだけで描写されているのだけど、それを読んで背筋が寒くなった。「城の崎にて」にしても、主人公が投げた石によって起こった出来事が本当に簡潔に書かれていて、わたしはとても怖いと思った。
本の最後に「リズム」という作品がある。一種の芸術論なのだけど、
芸術上で内容とか形式とかいう事がよく論ぜられるが…自分はリズムだと思う。…
このリズムが弱いものは幾ら「うまく」出来ていても、幾ら偉そうな内容を持ったものでも、本当のものでないから下らない。小説など読後の感じではっきり分る。作者の仕事をしているときの精神のリズムの強弱—-問題はそれだけだ。
とある。
自分は芸術家でもなんでもないけれど、「精神のリズム」というのはいろいろな場面に応用できそうに思った。生活しながらでも、リズムを意識してみるといいかもしれない。
《書評》書け、書け、書け、己に出会うために〜「魂の文章術—書くことから始めよう」
この本はタイトルに「文章術」とあるけれど、書かれているのは具体的なテクニックやハウツーではありません。紙 (やコンピュータ) に向かってひたすら文章を書くことで、自分自身に向かい合い、自分を知る方法が書かれています。
よく「自分を知るためのテスト」といったものがありますが、どうもわたしにはぴんと来ないものが多いのです。でも自分を知るために書く、ということはしっくりきました。
おそらく、テストは最終的になんらかのタイプに自分を当てはめることになり、タイプがいくらあろうとも、結局「すでにある形」にはまるからだろうか。それに対して書くことはそれこそ不定形だから、「よくわからないもの」は、そのまま「よくわからないもの」として認識できる (はず) なので、その違いによるのかもしれない。
本の中に「第一の思考」という章があります。
- 手を動かし続け、書いたものは消さない
- 文章のレイアウトや句読点の誤りは気にしない
- コントロールをゆるめ、考えない、論理的にならない
- 書いている最中にむき出しの何か怖いものが心に浮かんできたら、それに飛びつく
というルールのもとに、時間を区切って心に浮かんだことをひたすら書き付けていく「文章修行」について書かれています。これは「
今からでも間に合う大人のための才能開花術」にあった「モーニング・ページ」に通じるものですね。これは今度やってみようと思っています。
春秋社
売り上げランキング: 117266
余談
この本は友人あめいちゃんに借りました。以前「今からでも間に合う大人のための才能開花術」を借りたあと、「次はこっちを貸してあげるね」と薦められた本です。先約の数人の間を回ってやってきました
読了後、結局自分で購入しました
実は前出の文章修行およびモーニング・ページを見て、連想したものが2つあります。
1つは大島弓子「ロングロングケーキ」に出てくる「宇さん」。主人公の頭の中に埋もれている何億という物語をすくい上げ、小説にしていった宇宙人。
もう一つは高橋悠治「カフカ・夜の時間—メモ・ランダム」に出てきた一節
…自分用のノートがある。本からの抜き書き、音やリズムの思いつきにそえたメモ、演奏のしかたについての走り書きなど。
:
:
このノートは方法論のためだと、ずっと思っていた。だが、目標や方法を信じなくなったあとでも、やはりノートはつづく。そこで、気がついた。これは、音楽の前の、朝の祈りのようなものだった。
なぜこの2つが出てきたのかは自分でもよくわからない。どちらも「書く」「表現する」ことに関わる内容ではあるけれど、「魂の文章術」と直接結びつく内容でもないのに。
《書評》自分の見せ方について少し考える〜ネットがあれば履歴書はいらない
自分がインターネットを使い出して15年弱。
ごく単純なWebから始まり、メーリングリスト、IRC、日記、掲示板、SMS、ブログそしてTwitterと、使うサービスはどんどん変わってきてるけど、自分の世界がネットでものすごく広がっていることはずっと変わらない。
ネットを使い出した最初期に出会って、今も友人であり続けている人も多いし、ネットがなければ絶対に出会わなかったであろう人も多い。
自分はこれまでブランディングについてはほとんど意識してこなかったけど、興味はあったので読んでみた。
ツールの使い方がまとまっていてよかった。Twitterは使い始めて間もないけれど、Twitterと他のサービスのからめ方が具体的に書かれていたので、自分に合いそうなものを試してみたい。
———-
全体的にはいい本だと思うのだけど、個人的に「?」がつく箇所がいくつかあった。
ひとつめ。ネット婚活の話の中で、これまでとの結婚との比較で
いままでの出会いというのは、合コンや会社で出会った人と結婚する事例が多かったが、それは出会い頭の結婚のようなもの。結婚してみてから食い違いが出たりすることも多く、離婚も増加中だ
とあるんだけど、「合コンや会社で出会った人と結婚する」ことと「離婚も増加中」であることの因果がわたしには分からなかった。
あと、出会い頭の結婚だろうと、あらかじめ相手を知ってからの結婚だろうと、実際に結婚してから食い違いが出るという点は変わらないと思う。ここで言う「食い違い」が何を指しているか具体的に書かれていないけど、結婚生活も人間関係の1つである以上、食い違いが出ないなんて事はないと思うけどなぁ。
あともうひとつ。ブランディングの例で、犯罪者と同姓同名のケースを出すのはどうなのか。同姓同名の犯罪者が出るかどうかは自分ではどうしようもできないことのはず。今日は同姓同名の犯罪者がいなくても、明日史上まれに見る凶悪犯罪が起きて、その犯人が自分と同姓同名であった、というケースもあり得るはず。そういうコントロールの効かないものを例に出すのは適切ではないのでは。
あと、誤植と思われる箇所を2箇所発見しました (わたしが購入したのは第1版です)。
まず53ページ。
ツイッターで自分の病気の内容を公開すると、その情報を見たツイッターユーザーが、医者よりも多くの情報を他の教えてくれる
「他の」はトルツメかと。
次に212ページ。
…たとえば、ブロガーによる口コミの宣伝効果を狙い、清涼飲料水が有名ブロガーに送るというようなことも行われる。
「清涼飲料水が有名ブロガーに送る」は「清涼飲料水を有名ブロガーに送る」ではないでしょうか
個人的には、著者の考えには賛成できないところもあるけど、ブランディングのテクニックの本としてはよかったと思います。
宝島社 (2010-01-09)
売り上げランキング: 556
《書評》「作家」と「凡人」の間にあるものは〜ショート・サーキット
「ショート・サーキット」は「短絡」のことです。佐伯一麦 (さえきかずみ)の初期作品を集めた短編集。佐伯一麦は干刈あがたのエッセイ集どこかヘンな三角関係で「無言微笑の人」として登場していましたが (当時はまだ電気工の仕事もしていた)、作品を読んだのは初めて。
若くして父になった主人公が電気工として都市の裏側に入り込み、家族を養う日々、そして家族の成り立ちから解体までが書かれた短編集。家族の生活と、主人公が仕事であちこち飛び回る日々の描写の中で、なぜか強く印象に残った場面があります。
1つめは、結婚した直後に住んだ「崖っぷちのアパート」のベランダ風呂に守宮が出た場面。守宮をつかまえ、風呂の窓の外に貼り付けて、二人で風呂の中から眺める様子が奇妙に鮮やかだった。
そしてもう1つ、ある団地の空き家の修理で、家賃滞納の末立ち退きをくらい、その後合鍵を使って不法にその部屋に住み着いていると思われる元住民を追い出す場面。トイレのスイッチを取り替え、点灯確認しようとトイレの扉を開けようとすると開かない。何度か強く引っ張っても開かない。中に人がいると直感した彼は、トイレの中に向かって
「そんなところに隠れていないで出て行けよ。おれはもう一軒修理をしてからまたここに戻って来る。そのときもまだここにいたら、管理人につきだしてやるからな」
と一人言のように声をかけ、次の現場に行く。30分ほどして戻ってきたら、トイレの扉はうそのように簡単に開いた。トイレの中に人が潜んでいた気配はない。彼は自分の幽霊を見たような気がした。
本の最後に収められた「木の一族」という作品の中にこんな一節があります。
…たとえ、自分たち夫婦の諍いや、子供達の病気のことを書いたとしても、それは生きていく人間のあたり前の姿だと思っているからだ。確かに自分たちは、未熟な者同士の諍いの果てに、妻がガス栓を捻って始まった夫婦だったが、それを克服して生きて来たことを書き記すことは恥知らずでも何でもない。電気工事の仕事とともに家族を生かしてきた、その自分の仕事に誇りを持ってきたし、これからだってずっとそうだ。
(引用者注:「子供達の病気」とは、長女の学校緘黙症、長男の川崎病のこと)
これは家族をモデルにして小説を書き、新人賞を取った主人公が、妻にこれ以上家族のことを書かないでほしい、書きたいなら離婚してほしい、と迫られた場面の直後に出てくる、主人公の独白です。
「それを克服して生きて来たことを書き記すことは恥知らずでも何でもない。」という一節を読んで、こう思えること、思って書けることが作家と凡人の分かれ目なのかもしれない、と思いました。
「私小説」ってあんまり好きじゃないんだけど、彼の作品なら読めるかもしれない、と思った。そこに書かれる彼や家族の姿をどう思うかはともかくとして、私小説独特の、変なてらいのようなものを感じなかったので。
講談社
売り上げランキング: 220710
《書評》ただ、絵に見とれる〜まっくら、奇妙にしずか
この絵本は、作者アイナール=トゥルコウスキィの大学の卒業制作で作られたものだそうです。トゥルコウスキィは、ハンブルグ応用化学大学のデザイン=メディア=情報学部でイラストレーションの講座を受講した人です。
訳者あとがきで紹介されているストーリーはこんな感じ
どこからともなくやってきた見知らぬ男。正体のさだかでない「よそ者」に町の人々は容赦ない視線をあびせ、ふくれあがる好奇心をおさえきれない。不思議なのは、その男のなりわいだ。空をゆく雲をつかまえて、そこから雨ならぬ魚を降らせている。だれも考えてみたこともない、雲からの漁り(いさり)。その秘密に気づくや、人々はむらむらと欲望をつのらせる。嫉妬と敵意をまるだしにして、男を追い出し、われもわれもとおそらくは彼らがけっして試みるべきでなかったことを試みる。その暴走が、自分たちの破滅につながることを知りもしないで—-。
特筆すべきは絵の美しさ。シャープペンシルだけで描かれたという絵の陰影の美しさ・緻密さはすごい。こんなものどうやって描いたのだ、と言いたくなる。例えば「望遠鏡をのぞく男の手の甲に浮かび上がる静脈」までが、非常に繊細に描かれているのです。
そして、「雲をつかまえる道具」「雲」「魚」他、出てくるあらゆるものの形の面白さ。独創的でグロテスクで、美しい。
絵だけでなくストーリーについても。あらすじは前出の通りですが、静かだけど実は怖い、という怪談めいた面もあり、一種の終末論でもあり、救いのない話だけれど、妙に心に残る話だった。
これは絵本ですが、完全に大人向けに描かれたものです。絵もややグロテスクな感じがするので、大人でも好き嫌いが分かれるかもしれない。でもわたしは、とても美しい絵だと思ったし、久々に「絵に見とれる」体験をしました。
河出書房新社
売り上げランキング: 43868
余談
「モノクロームの絵の美しさに見とれる」というと、たむらしげる「メタフィジカル・ナイツ」を思い出します。これは1990年に発売されたCGの画集で、当時としてはかなり珍しかったと思います。モノクロームのCGに短いストーリーを組み合わせた構成で、とても美しい絵でした。今、手元にこの本がないのが残念。
《書評》穴ではなく、ドーナツを見よう〜とにかくやってみよう──不安や迷いが自信と行動に変わる思考法
「穴ではなく、ドーナツを見よう」は、この本の中に出てきた標語です。欠けているものではなく恵まれているものを探そう、という趣旨
この本の前書きに
初めてのことに思い切ってチャレンジするときや、これまでとは違うやり方で何かをするとき、誰もが不安を感じます。そのせいで前に踏み出せなくなってしまうこともよくあります。
これを乗り越えるカギは「不安は感じてあたりまえ、とにかくやってみよう!」です。
とあって、それでこの本を手に取ってみました
この本はなぜ不安になってしまうのか、の解説から始まり、苦痛から解放される方法、ポジティブになるトレーニング、パワーを引き出す段階まで、いくつかのトレーニングや図表を挟んで進んでいきます。
例えば「『苦痛からパワーへ』の言葉づかい」という図表があるのですが、これはコピーして手帳に貼っておこうと思っています。これはついついネガティブに言ってしまいがちなことをポジティブに言い換えるための例みたいなものです (「もしこうでさえあれば」→「この次は」など)
トレーニングで気になったものは「内なるパワーを感じるためのエクササイズ」「お互いにプラスになる会話法」「たくさんの選択肢に気づく方法」「大きく受け入れる人間に近づくための5つのステップ」など。
この本で一番印象的だったのは「不安に思っていることの90%は実現しない」という言葉。
「だからネガティブになっても意味がない、落とし穴に落ちるときは落ちるのだから、落ちる前から落ちることを心配してもしようがない」ともとれるし、
「10%は実現するんだから気持ちをそれに向けておくべき、「落ちない」と思っていていきなり落とし穴に落ちるよりも、「落ちるかも」と警戒していて落ちた方が、実際にはけがが少なくて済む」、とも言えるかもしれない。
前者は「ポジティブ」な考え方だし、後者は「ネガティブ」な考え方ですね。例えが変ですが。後者をすぐに思い浮かべてしまうのは、やはり自分がネガティブな考えの持ち主だからだろうな。
前出の「『苦痛からパワーへ』の言葉づかい」の中に「『私のせいじゃない』→『すべて私の責任だ』」というのがあります。自分の身に起きていることはすべて自分の責任である、という考えは、自己啓発書でよく出てくる考え方ですね。わたしはこの考え方自体には賛成なのだけど、その一方でこうも思う。
自分の身に起きていることがすべて自分に原因があるとすると、自分が人に傷つけられることも自分が悪い、自分を傷つける人は悪くない(なにしろ悪いのは自分なのだから)、ということになるのだろうか、と
例えば、職場で理不尽な扱いをされて苦しんでいる人がいるとする。その人が理不尽な扱いをされて苦しむのはその人に原因があるからだ、とすると、それは回り回って「相手に原因があれば、相手に理不尽なことをしたり傷つけてもいい」ということを認めることになりはしないか、と
誤解しないでいただきたいのですが、自分は「自分は悪くない、相手がすべて悪い!!」と言いたいのではありません。ただ、そういうことが成り立つ可能性があるのではないか、と思うだけです
そのことについての記述を、長くなりますが引用します
…ある生徒がこんな議論を持ちかけた。もしすべてに「イエス」と言うならば、すべてを受け入れることになる。すべてを受け入れてしまったら、世の中の間違いをただす行動ができなくなってしまうのではないか?
これに対して私はこう説明した。「イエス」と言うことはポジティブな行動であり、「ノー」と言うことはあきらめること。私たちは何かを変えられると思うときだけ、変化を起こそうと立ち上がることができる。たとえある状況に対して「ノー」と言ったとしても、その状況のおかげで成長する可能性には「イエス」と言える。自分の置かれた状況が絶望的だと思ってしまったら、ただ手をこまねいて、叩きのめされるままになるしかない。
:
:
…難題にもチャンスが隠れているということに「イエス」と言っている。
「イエス」と言うことは、あきらめることではない。
「イエス」と言うことは、自分の信念のために立ち上がって行動することだ。それによってどんな運命が突きつけられようと、なんらかの意義や目的をつくりだせるだろう。
これは自分が思ったことに対する直接の答えではないかもしれない、けど、この点に言及している本は、わたしは初めて見た
わたしはこれまで、とにかくネガティブというか厭世的な考えの持ち主でした。親からも「おまえはなんでそんなに厭世的なんだ」と言われたこともあるくらい。
別に意図してネガティブだった訳ではないのだけど、しかし最近、ネガティブであることにも疲れてしまった。でもポジティブであり続けることは、これはこれでネガティブ以上に疲れてしまう。
だからと言うわけではないけど、自分はとにかくポジティブになりたいとは思わない、でも少なくとも「ネガティブではない」地点を目指したい。そういう地点を目指すにも、この本に出てきたいくつかのエクササイズは役に立ちそうです。
海と月社
売り上げランキング: 59666
《書評》ぐうの音も出ない〜水曜日は狐の書評
水曜日は狐の書評 —日刊ゲンダイ匿名コラム (ちくま文庫) (文庫)
「狐の書評」とは、1981年2月から2003年7月まで、日刊ゲンダイに週1回掲載された匿名新刊紹介コラムのことです。その書評の書き手が <狐> と表記されていました (コラム名は途中で何度か変わっているようです)。
日刊ゲンダイは読んだことがないけど、匿名書評家「狐」のことは、昔の本の雑誌で読んで知っていました。とにかく面白い書評だ、と紹介されていた
図書館で見つけて、読んでみることに。紹介されている本は200冊。1999年5月から2003年7月末までに書かれた書評で、小説・まんが・写真集・料理本など、ジャンルは様々。字数は1冊800字。自分が読んだことがある本は8冊。うち4冊がまんが
普 段本を読みながら、気になるところに付箋を貼っているのですが、今回は文章だけでなく「これは読んでみたい」と思った書名にも付箋を貼りまくりました。 貼ったのは61冊。おかげで文庫本がライオンになってしまった。そして、読んでいて楽しかった。知らない本に出会う楽しさだけでなく、純粋に「本を読む楽 しさ」を味わうことができた。
狐氏の1冊目の書評集「狐の書評」が行きつけの図書館閉架にあることがわかったので、今度借りようと思います
どうして彼 (文章から男性と思われる) は、こんな楽しい書評を書けるのだろう。ある書評を例にして考えてみます
取り上げるのは小林カツ代「料理上手のコツ」。狐氏は、小林氏の文章を高く評価しています。
本書は、料理をおいしくする基本のわざのあれこれにつき、カツ代流の知恵を込めて語る一冊。分かりやすい。イメージの喚起力が並でない。テレビの料理番組などで有名な著者ではあるが、文章家として広く知られているとはいえないだろう。それが惜しい。
引 用した文章の直前では、小林氏が「弱火」「煮含める」を説明した部分が引用されています。狐氏は小林氏の文章の特徴を「イメージの喚起力が並でない。」と 表現しています。わたしは狐氏の文章のイメージの喚起力もまた並でないと思う。「分かりやすい」と一言で言っても、何がどう分かりやすいのか、を短く的確 に伝えることは難しい。自分自身が「何がどう」をきちんとわかっていなくてはならないだけでなく、「何がどう」を誰にでもわかるように表現しないといけな いから。
なんか当たり前の結論に落ち着いてしまいますが、狐氏はその本を読んで要所を的確につかんだ上で、その要所を一読でわかるように伝えてい る。そしてなにより、本が好きな人なんですね。本に対する愛情が行間から伝わってくる。さらにその愛情におぼれることなく、的確に批評する (ここでは評価の文章を取り上げましたが、批判もあります)。きっと愛情と批評のさじ加減がとても上手いのだと思う。
もう一つ引用します。狐氏は川原泉をかなりひいきにしておられるようです。わたしもファンなので、ちょっとうれしい。
その川原泉「ブレーメンII (1)」の書評ページから。
自慢ではないが、一度くらいは引き倒してみたいほどに川原泉のマンガをひいきにしている。しいて分類するなら少女マンガと言うことになるが、たしかに、そんなものは敬遠するのが健康な大人の読者といえるだろう。読む本は選ばねばならない。人生はあまりに短いのである。
しかし何事にも例外というものがあるのが、これまた人生であろう。川原マンガこそはその例外中の例外、とりわけ、なかんずく、ことさら、別して、読まれる べき少女マンガなのである。…いかにも西洋的な (つまりは少女マンガ的な) 美男美女の顔が、純モンゴロイドの顔にくるくる変わる自己反省の深さが勘どころだ。
:
:
…結末はまだ分からないが、馬鹿馬鹿しさ、脳天気さ、お気楽さ。まったく人生はあまりに短く、読む本は選ばねばならない。そしてこういう本こそ、選ばれるべきなのだ—-、呑気なフィクション (うそ、はったり) を遊んでみるためには。
(引用者注: 「ブレーメンII」はすでに完結しています)
わたしは「自己反省の深さが勘どころだ。」をよんで、膝を打ちました。自分が川原泉の絵に感じていたものはこういうことだったのか、こう表現すれば良かったのかと。
本を読んで、書評と称して好き勝手なことを書き散らしているだけの自分がこんなことを言うのはおこがましいのだけど、こういう文章が書けたら、と思う。本のことを的確に紹介し、文章そのものも面白い書評。道は果てしなく遠いけど、いろいろ挑戦していきたいと思います