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これはすごいものを読んだかもしれない〜食魔
岡本かの子を読んだのは初めてです。
嵐山光三郎「文人悪食」で紹介されていた「家霊」「鮨」という2つの小説を読んでみたくて手に取りました。
《書評》ごつごつした水晶の原石のような〜芥川龍之介[ちくま日本文学002]
思えば芥川龍之介も、教科書や副読本以外ではほとんど読んだことがありませんでした。はっきり読んだ記憶があるのは「トロッコ」くらい。
むしろ自分にとっては、「百間先生邂逅百間先生図」や「百間先生懼菊花図」の作者としてのイメージが強い (それはそれでどうかと思う)。
毎日就寝前に少しずつ読んでいたので、読了まで1ヶ月ほどかかってしまった。
彼が俳句を作っていたのは知っていましたが、詩も作っていたことはこの文庫を読んで初めて知りました。
同じシリーズの志賀直哉を読んだときは、文章は薄くて鋭利な刃物みたいだと思いましたが、芥川龍之介の文章は、ごつごつした水晶の原石みたいでした。硬くて鋭さを内側に隠し持っていながら、表面にそれは表れていない。物語世界にどっぶりとはまり込んでも、どこかで弾かれる感じがする。
今回読んだ中で一番気に入ったのは「蜜柑」という7ページほどの作品です。収録された他の作品と比べても、やや毛色が違う感じがする作品ですが、最後に「なんだか救われた感じ」がしたので。
「地獄変」は、恐ろしいと思いつつも読むのをやめられない、怖いけど目をそらせない、そんな感じで読んでしまいました。
あともう一つ。「杜子春」で、終盤で鬼にむち打たれた母が、杜子春に向かって「心配をおしでない。私たちはどうなっても、お前さえ仕合せになれるのなら…」と語りかける場面がありますが、もしここで母が杜子春を恨む言葉を口にしたら、いったい物語はどうなったのだろう。それが気になった。この展開の話を読んでみたかった気がする。
海亀のスープ
「高校生のための文章読本」に、イサク=ディネーセンの「イグアナ」という文章が収録されています。出典は「アフリカの日々 (ディネーセン・コレクション 1)」。
この本をAmazonでチェックしたとき、「バベットの晩餐会」が彼女の作品であることを知りました。映画のバベットの晩餐会は、10年ほど前にビデオで見ています。中沢新一の本 (タイトル失念。エッセイ集?だったと思う。「YELLOWS」についても触れられていた) で取り上げられていて、それをきっかけに見たのです。とても美しく、いい映画だった記憶があります。
さて、「バベットの晩餐会」で反射的に思い出したのが「海亀のスープ」。海亀をスープにすることはこの映画で知りました。そして思いつきで「海亀のスープ」で検索したところ、そのものずばり「海亀のスープ」 というゲームがあること、「世にも奇妙な物語」 にも同名のドラマがあることを知りました。バベットの晩餐会とはかけ離れた世界だけど、これはこれで面白そうだ。
「アフリカの日々」も「バベットの晩餐会」も、読みたい本リストに入りました。せめてどちらかは今年中に読みたい。
晶文社
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《書評》薄くて鋭利な刃物を連想した〜志賀直哉 [ちくま日本文学021]
志賀直哉は、高校の教科書に出ていた「網走まで」しか読んだことがありませんでした。
ちくま日本文学はアンソロジーなので短編のみの構成です。これらを読んでみて、志賀直哉は怖い人だと思った。特にそれを感じたのが「剃刀」。客を殺してしまった床屋の話なのだけど、冒頭から殺人が起きるまでの主人公の描写も、淡々としているのに心理などが明確にわかり、特に殺人場面はごく短い文2つだけで描写されているのだけど、それを読んで背筋が寒くなった。「城の崎にて」にしても、主人公が投げた石によって起こった出来事が本当に簡潔に書かれていて、わたしはとても怖いと思った。
本の最後に「リズム」という作品がある。一種の芸術論なのだけど、
芸術上で内容とか形式とかいう事がよく論ぜられるが…自分はリズムだと思う。…
このリズムが弱いものは幾ら「うまく」出来ていても、幾ら偉そうな内容を持ったものでも、本当のものでないから下らない。小説など読後の感じではっきり分る。作者の仕事をしているときの精神のリズムの強弱—-問題はそれだけだ。
とある。
自分は芸術家でもなんでもないけれど、「精神のリズム」というのはいろいろな場面に応用できそうに思った。生活しながらでも、リズムを意識してみるといいかもしれない。
《書評》「作家」と「凡人」の間にあるものは〜ショート・サーキット
「ショート・サーキット」は「短絡」のことです。佐伯一麦 (さえきかずみ)の初期作品を集めた短編集。佐伯一麦は干刈あがたのエッセイ集どこかヘンな三角関係で「無言微笑の人」として登場していましたが (当時はまだ電気工の仕事もしていた)、作品を読んだのは初めて。
若くして父になった主人公が電気工として都市の裏側に入り込み、家族を養う日々、そして家族の成り立ちから解体までが書かれた短編集。家族の生活と、主人公が仕事であちこち飛び回る日々の描写の中で、なぜか強く印象に残った場面があります。
1つめは、結婚した直後に住んだ「崖っぷちのアパート」のベランダ風呂に守宮が出た場面。守宮をつかまえ、風呂の窓の外に貼り付けて、二人で風呂の中から眺める様子が奇妙に鮮やかだった。
そしてもう1つ、ある団地の空き家の修理で、家賃滞納の末立ち退きをくらい、その後合鍵を使って不法にその部屋に住み着いていると思われる元住民を追い出す場面。トイレのスイッチを取り替え、点灯確認しようとトイレの扉を開けようとすると開かない。何度か強く引っ張っても開かない。中に人がいると直感した彼は、トイレの中に向かって
「そんなところに隠れていないで出て行けよ。おれはもう一軒修理をしてからまたここに戻って来る。そのときもまだここにいたら、管理人につきだしてやるからな」
と一人言のように声をかけ、次の現場に行く。30分ほどして戻ってきたら、トイレの扉はうそのように簡単に開いた。トイレの中に人が潜んでいた気配はない。彼は自分の幽霊を見たような気がした。
本の最後に収められた「木の一族」という作品の中にこんな一節があります。
…たとえ、自分たち夫婦の諍いや、子供達の病気のことを書いたとしても、それは生きていく人間のあたり前の姿だと思っているからだ。確かに自分たちは、未熟な者同士の諍いの果てに、妻がガス栓を捻って始まった夫婦だったが、それを克服して生きて来たことを書き記すことは恥知らずでも何でもない。電気工事の仕事とともに家族を生かしてきた、その自分の仕事に誇りを持ってきたし、これからだってずっとそうだ。
(引用者注:「子供達の病気」とは、長女の学校緘黙症、長男の川崎病のこと)
これは家族をモデルにして小説を書き、新人賞を取った主人公が、妻にこれ以上家族のことを書かないでほしい、書きたいなら離婚してほしい、と迫られた場面の直後に出てくる、主人公の独白です。
「それを克服して生きて来たことを書き記すことは恥知らずでも何でもない。」という一節を読んで、こう思えること、思って書けることが作家と凡人の分かれ目なのかもしれない、と思いました。
「私小説」ってあんまり好きじゃないんだけど、彼の作品なら読めるかもしれない、と思った。そこに書かれる彼や家族の姿をどう思うかはともかくとして、私小説独特の、変なてらいのようなものを感じなかったので。
講談社
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