カテゴリー: 読書記録
《書評》厄介ものとうまくつきあうために〜「つい悩んでしまう」がなくなるコツ
悩みはやっかいなものです。
生きていればあらゆる事が「悩みの種」になりうるし、「悩みがなくなれば」と考える人は自分も含め多いでしょう。悩みのせいで自分やりたいことができなかったり、苦しい思いをすることも少なくありません。
自分自身はこの本のカバーにあるような「カチンときた一言が何日も忘れられない」「失敗を何回も思い返してしまう」ことが多く、こういうことをなくしたい、少なくとも頻度を下げたいと思って、この本を手に取りました。
正直に言うと、最初に読んだときはよくわからなかった。「よくわからない」だけの本だったら、再び読み返すことはなかったでしょう。時間の無駄だもの。でも何か引っかかるものがって、再度読んでみました。
悩みを減らすキーワードは「自分がどう思っているかを大切にする。自分がしたいことをやる」。
悩みは何か、と聞かれたとき、いくつも悩みが出てきたりしますが、実はそれらの悩みは根本が一つであることが多いといいます。自分が目下抱えている悩み (思い出すのもつらいことではなく、軽いものでOK) を具体的に書き出してみることで、自分の悩みが何から発しているものなのか、自分が何を求めているのかをつかむことが大事。
悩みの解決が一見困難に思えるのには、「悩みグセ=思考グセ」がついているから。ぐるぐるした思考にはまって、他者を気にしているうちは悩みはなかなかなくならない。むしろ自分の気持ちや感情に沿った選択をした方がうまくいく。
必要なのは、自分の感情を受け入れること。例え不安や焦り、苛立ちといったマイナスの感情であっても、それは自分の心と体の一部なのだから、感情そのものを否定せずに受け入れることが大切。
自分がよく分からなかったのが、この「自分の気持ちや感情に沿った選択をする」ということ。わたしは自分が何を考えているのか分からなかったり、自分が感じているものを言葉に変換して表現するのがとても苦手なのです。こういうことになるのは自分の語彙の問題、あるいは思考力や表現力の問題だと思っていたのですが、むしろ自分の気持ちに鈍感だからなのではないか、そして自分の気持ちに鈍感な分、他人基準になってしまっている面があるのかもと思えてきました。きちんと自分の気持ちや感情を感じ取れてないから表現ができないのかもしれない。
自分にとってはちょっとした衝撃だった言葉がありました。それは
「みんな、悩んでいるのが好きなんですよ」
というもの。悩みを軽くとらえてほしい、との思いから、著者がよく発する言葉だそうです。
また、悩みは自分を守ってくれる役目もあるということ。
例えば「悩みがなくなったら○○したい」と思っていても、無意識で「本当は○○をしたくない」思っていたとき、つまり本当は望んでいないことを「自分の理想的なあり方」と信じてしまっているとき、無意識にその○○をしないようにするために悩みが起きる、とあり、これは少し驚きました。
悩みなんて厄介者でしかなく、なくなればどんなにかせいせいするか、と思っていたけど、実は悩みが自分を守っているなんて考えたこともなかった。
個人的には、心の中にある恐れを克服する方法、自分がやりたいことが周囲にどうしても受け入れられなかったり、実現が難しい場合の対処法まで書いてあればよかったな、と思います。これらは自分の考えで変えていかなくてはならないことだけど、そのためのヒントがあればもっとよかったと思う。最初に書いた「カチンときた一言が何日も忘れられない」「失敗を何回も思い返してしまう」ことにしても、具体的にそれを減らす方法をつかめたかというと、そうでもない。ぼんやりした感じは残る。でも、この本を読んだことは無駄ではないと思っています。
自分にとっては、悩みの正体に少し触れることができたこと、悩みというものをこれまでにない角度で見ることができたことが、この本を読んだ最大の収穫だったかもしれない。
とにかく厄介者、早くなくなってしまえとしか思っていなかったけれど、悩みの奥にあるもの、悩みを発しているものを知ることが大切なのかも、と感じました。
悩みと真正面から向き合うのは楽しい作業ではないだろうけど、自分をつらくしないためにも、その悩みの根本にあるものが何かをつかめるよう、自分に向き合い、自分をいたわる時間を増やしたいと思う。
完全に悩みのない状態などはあり得ないでしょうが、それでも悩みというものに対して、新たな視点を得ることができたのは収穫でした。
《書評》読書の効用を人に伝えるのは案外難しい〜読書力
齋藤孝氏の本を読んだのは初めてです。齋藤氏は「『○○力』という名前のベストセラーをたくさん出している、テレビにもよ く出ている大学の先生」という認識しかありませんでした。
この本における読書とは 「多少とも精神の緊張を伴う読書」「思考活動における素地を作るための読書」のことです。
読書力があることの目安とし て「文庫100冊・新書50冊」を読んでいることをあげています。「文庫」は「新潮文庫の100冊」にあるようなラインナップ(齋 藤氏の考える読書力は「文学を全く排除したものではあり得ない」)。新書は昔の岩波新書や中公新書のような、ある程度質の高い知識情報がコンパクトにまと まったもの。文庫と新書があるのは、文庫と新書では要求される読書力が違うから、だそうです。
齋藤氏は「本を読むことの意味は何か」という、案外答えにくい問いに対して、「読書によって…の力がつく」という形式で答えて います。
大まかには、各章のタイトルにある「自分をつくる—自己形成としての読書」「自分を鍛える—読書はスポーツだ」「自分を広げる—読書はコミュニケーション力の基礎だ」の3つ。
「自分を広げ る」では、ただ一人で読むだけでなく、読書会などで本を介して人とコミュニケーションをとるやり方にも言及されています。複数の人間で紙にキーワードを書 き込んでいくなど、面白そうな手法も紹介されています。
この本自体、岩波新書とし てはかなり読みやすい本だと思います。それほど時間をかけずに読めます。全体的に読書について熱く語られていて、齋藤氏の思い入れの深さが伝わってきます。彼自身が相当の読書家であり、自 己形成において読書から大きな影響を受けたという自覚、多くの読書に裏打ちされた知識があるからこその熱さだと思います。
そしてわかりやすい。語り口が明瞭で例えがうまく、説得力もある。これを「素晴らしい」と思うか、逆に「うさんくさい」と思うかは人によって分かれるところでしょう。
わたし自身は、読書は農業における「土作り」と同じで はないか、と思っています。そういう点では、読書に対する考えは齋藤氏に近いかもしれません。ただ、自分は古典をあまり読まずにここまで来てしまった、齋藤氏言う読書力の目安に到達してるとはいえないかも、という自覚があるので、偉そうなことは言えませんが。
実は今の職場で、「本を読んだ方がいいですか」という質問を二度受けてい ます。一度は入社2年目の男性社員から、一度は幼稚園児の娘がいるパート女性から(子どもに読ませた方がいいか、という質問)。どちらも「読んだ(読ませた)方がいいです」と答えたのですが、なぜ読んだほうがいいのか、はなかなかうまく伝えられないのです。「本を読んだ方がいいか」という質問の答えとし て、この本を薦めるのはありかもしれない、と思いました。
もちろん、齋藤氏の提唱する読書法が絶対ではないし、本の読み方は人それぞれ。読み方に正解はないと思います。でも、本を読むことの効用は非常に明快に書いてあるので、読んだ方がいい のか、と思っている人にとっては、分かりやすい指針になると思います。
《メモ》言葉にできない、でも読んでよかった〜夜と霧
先日の名古屋ライフハック研究会で、@stilo から渡されました。オーナーは @yutty 。
第2次世界大戦中にアウシュビッツの強制収容所に送られたユダヤ人精神科医の、収容から解放までの経験をまとめた本です。読むのがつらく感じる場面もありました。
彼が収容所で経験したことについては、なんと表現すればいいのか分からないし、軽々しく何かを言ってはいけない気がします。ただ、とにかく悲惨という言葉も生やさしいかもしれない状況を生き抜き、その経験をこうして本にまとめた著者に敬意を払うばかりです。
そしてこんな状況であっても、人間は自由な精神と尊厳を持ち続け、希望を失わずにいることができるのか。ただそのことに驚嘆しました (逆に彼は尊厳と希望を失わなかったからこそ、生き延びることができた、とも言えます)。
「つまり人間はひとりひとり、このような状況にあってもなお、収容所に入れられた自分がどのような精神的存在になるかについて、なんらかの決断を下せるのだ。」
「強制収容所の人間を精神的にしっかりさせるためには、未来の目的を見つめさせること、つまり、人生が自分を待っている、誰かが自分を待っていると、つねに思い出させることが重要だった。」
これらの言葉に、頭を殴られたような気がしました。
こんなことしか書けませんが、でもわたしはこの本は読んで本当によかったと思うし、読むきっかけを作ってくれた@stilo と @yutty に感謝しています。
《書評》本との向き合い方の1つのモデル〜読書と社会科学
社会科学では、概念という装置を使って物事の本質を見極めようとします。自前の「概念装置」をどのように獲得するか、そのためにはどう本を読むべきか、という話が中心にあります。
この本の後半は、大学で実際に社会科学を学んでいる学生向けの講義をベースにしているせいか、わたしには難しいと感じられました。しかしこの本全体を通して出てくる「本をいかに読むべきか」という提言や、前半の読書会に関する記述はとても興味深かったです。
これは読書会をめぐる2つの問題「本をどう読むか」「どうすれば実りのある、持続的で楽しい場にすることができるか」について、著者が実際にとある読書会で講演した内容をベース再構成したものです。
読書会が楽しく育ってゆくかどうかの鍵は「聴くこと」にある。上手に聴くこと、一人一人がどの程度聴き上手か。
皆が下手に「話し上手」になって、結果として話し下手の人の口ごもりながらの発言を圧倒するようなことは避けなければならない。
これでも思い出したのが、現在自分が参加している名古屋ライフハック研究会。ここは「読書会」ではないのだけど、読書に関する関わりは深いと思う。ここでたくさんのいい本に出会っているからであり、1つの本を何人かで読み、お互いに付箋を貼り付けたりして読みの違いを確認する、という新たな楽しみを発見したからです。
この会は、「聴く」ことがよくできている場だと個人的には思います。本に対する評価は人それぞれだし、「とてもよい」といわれて借りた本が自分に合わなかった、と言うことは当然あり得るわけです。それでも、お互いの評価をちゃんと聴く姿勢があるから、次に本を薦められても手にとって読んでみよう、と思える。
わたしは単なる参加者に過ぎないので「楽しい」と言っているだけで済みますが、実際に運営しているスタッフの皆さんの苦労はいかばかりかと思います。すばらしい場を運営しているスタッフの皆さんにお礼申し上げます。
話を戻して。
この本の中に出てきたキーワードで、気になったものを挙げます。
「本は読むべし読まれるべからず」
本は読まなきゃ損。いい本は、上手に読めば、読んだだけの甲斐があったと思わせるだけのものがある。本でモノが読めるように、そのように本を読む。それが「本を読む」ということの本当の意味である。
「情報として読む」「古典として読む」
「情報として読む」は、文字通り新しい情報を取り入れるために本を読む読み方。「古典として読む」は、情報を見る眼の構造を変え、情報の受け取り方、自分にとって有益なものの考え方、求め方を変えていく読み方、すなわち
「情報を受取る眼を養うための読書」。
「情報」「古典」とありますが、一般的に言われる「情報」「古典」がそのまま当てはまるわけではない。「古典として読まれる雑誌(例として「暮しの手帖」が挙げられている)」「(案内という意味での)情報を得るために古典を読む」もあり得るわけです。
「信じて疑う」
本を読むときには、仮説的に信じて読む。信じなければ内容に踏みこめず、適当にしか読めない。信じて読むからこそ、解くべき問題や新たな創造につながる疑いを見つけることができる。しかしだからといって著者を盲信してはいけない。自分の読みに対する信念がなければ精読はできない。
本をよく選んで、一度選んだからには、そのときの自分の読みと本そのものを仮説的に信じて、本文を大切に、踏み込んで深く読む。
いい加減に読むくらいなら読まない方がいい。
「みだりに感想文を書くな」「感想にまとめやすい形で読むべきものじゃない」
本をていねいに読むためには、読みっぱなしにせずに書くことで感想をまとめておくことが大切。自分が読んだことを他人に伝えられる「独立した文章」にまとめあげる努力を通じて、初めて自分にもはっきり分かることがある。
しかし、感想を狙いに本を読んではいけない。最初から
「まとめやすい形」での感想を求めて掬い読みをしてしまうと、せっかく古典を読んでも、もっともいいところを取り逃がしてしまう。
著者は読書の対象として経済学 (やその他社会科学) の専門書が念頭にあるのだと思います。
しかしここに取り上げた教訓は、ビジネス書や自己啓発書を読むときの姿勢にも当てはまるものでしょう。
そもそも自分は「読むこと自体が楽しいから」読書をしているし、ビジネス書の類はあまり読まないんだけど、読むときの一つの指針になるかなと思う。
そして「概念装置」という言葉、学問上の話ではあるけれど、学問から離れたところでも自前の「概念装置」を持つことは重要だと思う。それを手に入れるためにすべきことの指針になると思います。
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《書評》「普通」というのは難しい、いろんな意味で〜「普通がいい」という病
この本は、精神科医である著者がカウンセラー志望者などに向けた講座内容を一般向けに構成したものです。
「普通」という言葉はあたりまえのように使われますが、実は結構曖昧な言葉なのかもしれません。そして曖昧ながら、人を縛る力が強い言葉でもあるわけです。この本には「自分で感じ、自分で考える」という基本に支えられた生き方を回復するためにはどうしたらいいか、そのためのキーワードやイメージがが数多く登場します。
自分にとって特に印象的だった点を書きます。
第2講に「言葉の手垢を落とす」というのがあります。「言葉の手垢」とは、言葉にくっついている「ある世俗的な価値観」のことです。一度ある言葉を獲得してしまうと、その言葉についてじっくり考えたりそこにどんな手垢がついているのか吟味せずに、ただただ使っていってしまう。しかしそれが後々、物事を見たり考えたり判断する上で大きな影響を及ぼすようになる。それを思うと、言葉を不用意に扱うのは、実はとても恐ろしいことであると言えるのではないか。
この章をを読んで、はっとしました。確かに普段言葉を使うとき、特に考えることなく、何気なく使ってしまうことが多い。でもその言葉によって、
言葉を受けた相手を縛ったり、あるいは自分自身を縛ってしまう可能性がある。
自分が使う言葉すべてを吟味するのは現実には無理だろうけど、自分が発した言葉についた手垢がどういうものか、どういう意図で自分がその言葉を使ったのか、折を見て振り返るようにしたいと思います。
あと第8講「生きているもの・死んでいるもの」では、美術家の横尾忠則氏と医師の木村裕昭氏の対談が引用されているのですが、この中に木村氏の発言で
「…敏感な人は、同時に神経が細いというやっかいなことがある。だから、敏感になって太ければいいわけです。…」
とあります。わたしはこれを読んでびっくりしました。よく「敏感で細い」「鈍感で太い」という言い方はしますが、「敏感で太い」というのは考えたこともなかったからです。
この引用の直前で、人が成長し社会化されていく上で、どんな人も必ず通る「適応」のプロセスについて、その中で「本当の自分」を発見し、それを活かす方向に進めた場合と、うまくいかなかった場合について論じられています。
著者は「本当の自分」をしっかり持ち、さらに処世術的なテクニックを身にまとう事で自分自身を守ることの必要性を説いています。
自分のあり方を考えたり、自分以外の人や世界との関わりを考える上でのよいテキストだと思いました。
気持ちが沈んだり、自分を押さえ込みがちになってしまったときに、再び読んでみたいと思います。
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「こうであるはず」だったのものは実は〜クーリエ・ジャポン2010年3月号を読んで
クーリエ・ジャポンは、世界中のメディアから発信されたニュースを翻訳・編集した雑誌です。
今回レビュープラスさんから献本いただきました。
特集は「貧困大国 (アメリカ) の真実」。堤未果さん責任編集で現在のアメリカが、どれだけ貧困にむしばまれているかが丹念に追われています。
これを読むと、アメリカ国民がいかに借金に苦しめられているか (それこそ死んでも借金から逃れられない状況があるとか)、「普通の人」で生活に行き詰まる人がどれだけ多いかが見えてくる。ここではこれまで自分 (たち) が考えてきた「こうであるはずのアメリカ」は、ほとんど感じられない。
ルポの中に、フードスタンプ (食料配給券) 受給者の話が出てきます。驚くことに、これまでなら考えられなかったような人たちが、失業などをきっかけにフードスタンプ受けるようになってきているそうです。
そんな家族から失われて「安定」の象徴として返ってきた言葉が「ポットロースト (蓋のついた鍋で蒸し焼きにした肉料理)」。彼らは夫婦ともに失業したことから生活に行き詰まり、現在もかなり苦しい生活を送っている。でも、フードスタンプのおかげで、時には日曜日にポットローストが食べられるようになったという。
特集自体が重苦しいものではあるのだけど、このフードスタンプの話に胸が詰まった。
しかしこれは「遠い国」の話なのだろうか。確かにここに示されたアメリカの状況はひどいものだけど、それを何倍かに薄めたような状況は、すでに日本にもあるではないか。健康保険に関しては、日本はアメリカよりずっとマシなのかもしれないけど、それでも保険料が払えず、結果として必要な治療を受けられない人はじわじわ増えてきているといいます。借金にしたって、規模こそ小さいけれど、「必要な」借金が重荷になり、学校をやめたり家を手放す人も増えてきている。こんな中で自分たちができることは、様々な情報に踊らされることなく、何が起きていて、何が必要なのかをきちんと知り、きちんと考えて選択すること、ではないだろうか。これ自体が難しいことではあるかもしれない。でも、難しいからといって諦めてしまうと、より悪い状況に陥るかもしれない。それは心にとめておくべきだろう。
特集以外で興味深かったのが、ニューヨーカーの記事「ミシュラン覆面調査員とランチを食べてみた」。
ミシュラン覆面調査員がどのような人で、どのように料理を食べて評価するか、を追いかけた記事です。
食べ物の味について云々するのは難しい。だいたい自分はごく庶民的な食事で育ち生活しているし、食べ歩きのようなことはほとんどしない。必要に迫られない限りレストランガイドのようなものは見ない。だもんだから、東京版ミシュランガイドが発行されたときの騒ぎが理解できなかった。
その「理解できないもの」の裏側をのぞくという、奇妙な楽しみを味わいました
この特集を読んで思い出した言葉があります。それは嵐山光三郎が「文人暴食」で書いた
「料理は一定のレベルまでは料理人の腕によるが、頂点をきわめたそのさきには、悲しみの味つけが不可欠で、これは食べる側の問題なのである」
というもの。この「悲しみの味つけ」を排して料理を食べ分析するミシュラン覆面調査員は果たして幸福なのかどうか、と余計なことまで考えてしまった。
全体を通して、日本にいるとわからない視点からの記事が多く、暗い話も多いけれど、読んでいて楽しかったです。
《書評》「趣味が悪い」と言ってしまえばそれまでだが〜夜露死苦現代詩
「夜露死苦」というのは、言うまでもなくヤンキーがよく使うフレーズです。著者はこのフレーズについて
なんてシャープな四文字言葉なんだろう。過去数十年の日本現代詩の中で、「夜露死苦」を超えるリアルなフレーズを、ひとりでも書けた詩人がいただろうか。
と書いています。
この本は「現代詩」と書かれているけど、いわゆるプロの詩人が書いた現代詩ではなく、街角に埋もれたリアルな言葉から「ほんとうにドキドキさせる言葉」をあぶり出そうとしています。
取り上げられているのは
- 寝たきり老人がつぶやいた言葉
- 死刑囚の俳句
- 玉置宏の話芸
- 32種類の「夢は夜ひらく」
- 暴走族の特攻服の刺繍
- ヒップホップ、ラップミュージック
- 知的障害者、統合失調症患者の詩
- エロSPAMの文面
- 湯飲みの説教
- 見せ物小屋の口上
など16種類。それに「あとがきにかえて」として、相田みつを美術館訪問記。これらの「詩」から遠く離れていると思われる言葉から「ほんとうにドキドキさせる言葉」を探そうとします。
タイトルにも書きましたが、正直言って「趣味が悪い」言葉も少なくない。でも、趣味は悪いけど、読ませられてしまう言葉が並ぶ。不謹慎ながら、面白いんだ。
そもそも人を引きつけるために発せられる言葉にしても、人にどう思われるかについて全く考えられていない言葉 (表現が適切じゃないかもしれないけど) にしても、すーっと自分のそばに寄ってきて、ぐいっと引っぱられる感じがする。
(エロSPAMといえば、たまに「あんたこんなことしなくても、まっとうなライターとして十分食っていけるよ」って文章がありますね)
面白いだけでなく、この本で初めて知ったことも多い。
例えば
- 玉置宏のナレーションが台本なしの話芸だったこと
- 分速360字見当で話すのがもっとも聞きやすい速度であること
- 喋りの間や、やりとりの基本は古典落語にあること
- 「夢は夜ひらく」という歌は32種類もあること (この本にはそのうち13種類の「夢は夜ひらく」が収録されています)
あと、ラッパーダースレイダーについて書かれています。
ラップやヒップホップは聞かないのでダースレイダーという人はこの本で知りました。インタビューの中で彼は
ダースレイダーがトレーニングとして自分に課しているのが、「部屋で音楽をかけて、ひとりでもとにかく毎日ラップする」こと。…そうやって「何時間もラップしているうちに、自分でも思っても見なかったラップがリズムに乗って出てくるんです。自分の中にこんな表現が眠ってたのかというようなフレーズが」。
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「ラップは演奏でもあるわけですから、リズムなしだと結局、あとから書き直すことになるし。それに日本語としておかしいとしても、こう言ったほうが口はよく回るし、リズムには乗る、それをどうしていくのかを考えていると、日本語の可能性を追求していくことでもあるんだなと感じてます」
と話しています。これは魂の文章術に出てきたトレーニングに通じるものがあると思いました。ラップか文章かの差はあるけれど、とにかくおかしかろうとなんだろうと言葉を絞り出すことで、自分の中から新しい表現を呼び覚ます。
どんなことにせよ、表現したかったらとにかく表現する、出来を気にする暇があったら量をこなすのが大事なのですね。
ふと思ったよ。「リアルな言葉」と「リアリティのある言葉」って、どう違うのだろう。
《書評》薄くて鋭利な刃物を連想した〜志賀直哉 [ちくま日本文学021]
志賀直哉は、高校の教科書に出ていた「網走まで」しか読んだことがありませんでした。
ちくま日本文学はアンソロジーなので短編のみの構成です。これらを読んでみて、志賀直哉は怖い人だと思った。特にそれを感じたのが「剃刀」。客を殺してしまった床屋の話なのだけど、冒頭から殺人が起きるまでの主人公の描写も、淡々としているのに心理などが明確にわかり、特に殺人場面はごく短い文2つだけで描写されているのだけど、それを読んで背筋が寒くなった。「城の崎にて」にしても、主人公が投げた石によって起こった出来事が本当に簡潔に書かれていて、わたしはとても怖いと思った。
本の最後に「リズム」という作品がある。一種の芸術論なのだけど、
芸術上で内容とか形式とかいう事がよく論ぜられるが…自分はリズムだと思う。…
このリズムが弱いものは幾ら「うまく」出来ていても、幾ら偉そうな内容を持ったものでも、本当のものでないから下らない。小説など読後の感じではっきり分る。作者の仕事をしているときの精神のリズムの強弱—-問題はそれだけだ。
とある。
自分は芸術家でもなんでもないけれど、「精神のリズム」というのはいろいろな場面に応用できそうに思った。生活しながらでも、リズムを意識してみるといいかもしれない。
《書評》書け、書け、書け、己に出会うために〜「魂の文章術—書くことから始めよう」
この本はタイトルに「文章術」とあるけれど、書かれているのは具体的なテクニックやハウツーではありません。紙 (やコンピュータ) に向かってひたすら文章を書くことで、自分自身に向かい合い、自分を知る方法が書かれています。
よく「自分を知るためのテスト」といったものがありますが、どうもわたしにはぴんと来ないものが多いのです。でも自分を知るために書く、ということはしっくりきました。
おそらく、テストは最終的になんらかのタイプに自分を当てはめることになり、タイプがいくらあろうとも、結局「すでにある形」にはまるからだろうか。それに対して書くことはそれこそ不定形だから、「よくわからないもの」は、そのまま「よくわからないもの」として認識できる (はず) なので、その違いによるのかもしれない。
本の中に「第一の思考」という章があります。
- 手を動かし続け、書いたものは消さない
- 文章のレイアウトや句読点の誤りは気にしない
- コントロールをゆるめ、考えない、論理的にならない
- 書いている最中にむき出しの何か怖いものが心に浮かんできたら、それに飛びつく
というルールのもとに、時間を区切って心に浮かんだことをひたすら書き付けていく「文章修行」について書かれています。これは「
今からでも間に合う大人のための才能開花術」にあった「モーニング・ページ」に通じるものですね。これは今度やってみようと思っています。
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余談
この本は友人あめいちゃんに借りました。以前「今からでも間に合う大人のための才能開花術」を借りたあと、「次はこっちを貸してあげるね」と薦められた本です。先約の数人の間を回ってやってきました
読了後、結局自分で購入しました
実は前出の文章修行およびモーニング・ページを見て、連想したものが2つあります。
1つは大島弓子「ロングロングケーキ」に出てくる「宇さん」。主人公の頭の中に埋もれている何億という物語をすくい上げ、小説にしていった宇宙人。
もう一つは高橋悠治「カフカ・夜の時間—メモ・ランダム」に出てきた一節
…自分用のノートがある。本からの抜き書き、音やリズムの思いつきにそえたメモ、演奏のしかたについての走り書きなど。
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このノートは方法論のためだと、ずっと思っていた。だが、目標や方法を信じなくなったあとでも、やはりノートはつづく。そこで、気がついた。これは、音楽の前の、朝の祈りのようなものだった。
なぜこの2つが出てきたのかは自分でもよくわからない。どちらも「書く」「表現する」ことに関わる内容ではあるけれど、「魂の文章術」と直接結びつく内容でもないのに。
《書評》自分の見せ方について少し考える〜ネットがあれば履歴書はいらない
自分がインターネットを使い出して15年弱。
ごく単純なWebから始まり、メーリングリスト、IRC、日記、掲示板、SMS、ブログそしてTwitterと、使うサービスはどんどん変わってきてるけど、自分の世界がネットでものすごく広がっていることはずっと変わらない。
ネットを使い出した最初期に出会って、今も友人であり続けている人も多いし、ネットがなければ絶対に出会わなかったであろう人も多い。
自分はこれまでブランディングについてはほとんど意識してこなかったけど、興味はあったので読んでみた。
ツールの使い方がまとまっていてよかった。Twitterは使い始めて間もないけれど、Twitterと他のサービスのからめ方が具体的に書かれていたので、自分に合いそうなものを試してみたい。
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全体的にはいい本だと思うのだけど、個人的に「?」がつく箇所がいくつかあった。
ひとつめ。ネット婚活の話の中で、これまでとの結婚との比較で
いままでの出会いというのは、合コンや会社で出会った人と結婚する事例が多かったが、それは出会い頭の結婚のようなもの。結婚してみてから食い違いが出たりすることも多く、離婚も増加中だ
とあるんだけど、「合コンや会社で出会った人と結婚する」ことと「離婚も増加中」であることの因果がわたしには分からなかった。
あと、出会い頭の結婚だろうと、あらかじめ相手を知ってからの結婚だろうと、実際に結婚してから食い違いが出るという点は変わらないと思う。ここで言う「食い違い」が何を指しているか具体的に書かれていないけど、結婚生活も人間関係の1つである以上、食い違いが出ないなんて事はないと思うけどなぁ。
あともうひとつ。ブランディングの例で、犯罪者と同姓同名のケースを出すのはどうなのか。同姓同名の犯罪者が出るかどうかは自分ではどうしようもできないことのはず。今日は同姓同名の犯罪者がいなくても、明日史上まれに見る凶悪犯罪が起きて、その犯人が自分と同姓同名であった、というケースもあり得るはず。そういうコントロールの効かないものを例に出すのは適切ではないのでは。
あと、誤植と思われる箇所を2箇所発見しました (わたしが購入したのは第1版です)。
まず53ページ。
ツイッターで自分の病気の内容を公開すると、その情報を見たツイッターユーザーが、医者よりも多くの情報を他の教えてくれる
「他の」はトルツメかと。
次に212ページ。
…たとえば、ブロガーによる口コミの宣伝効果を狙い、清涼飲料水が有名ブロガーに送るというようなことも行われる。
「清涼飲料水が有名ブロガーに送る」は「清涼飲料水を有名ブロガーに送る」ではないでしょうか
個人的には、著者の考えには賛成できないところもあるけど、ブランディングのテクニックの本としてはよかったと思います。
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