カテゴリー: 読書記録
新しい数学の表現に出会う〜数学はあなたのなかにある
表紙だけ見たら、数学の本だとは思えません。内容は絵本とまんがの中間みたいな感じ。
計算や論理、図形などなどが人間関係に置き換えられて表現されています。
例えば四則演算は、男女が出会い、子供が生まれるまで過程になぞらえられます。
そして「直角三角形の外心円の中心は斜辺上にある」という「直角三角形の外接円の定理」。これも驚きのストーリーで語られます。
どちらも「こんな表現方法があったのか」という驚きました。「確かにこういうとらえ方もできるかも」の連続です。
ここで思い浮かんだのが「数学ガール」。
「数学ガール」が問題を考え解く楽しさを教えてくれるとしたら、この本は数学が自分とはかけ離れたものではないことを教えてくれます。
「数学ガール」は小説とはいえしっかりした数学の本で、2冊の雰囲気はかなり違いますが、学校の授業ではわからない数学の一面を教えてくれる点は同じだと思います。
この本の中に
もし数学を複雑だというなら、それは人が複雑にできているからこそ。
ということばがあります。
こういう視点を持てると、数学がただ面倒なだけのものではなくなるはずです。
著者は舞台美術が専門です。数学が専門の人ではないからこそこういう本が生まれたのだと思います。
この本を読んだらすぐに数学がわかるようなるとか、テストの点数が上がるということにはならないでしょう。でも、数学に対する敷居をすごく低くする効果があると思います。
数学が苦手な人、数学なんて意味がないと思っている人にこそお勧めしたい本です。
まさに「数学はあなたのなかにある」ことが実感できます。
河出書房新社
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あたまがふるふるになる〜なんらかの事情
岸本佐知子さんのエッセイを読むと、脳が柔らかくなってくる気がします。普段は五箇山豆腐みたいな感じなのが、ふるふるのゼリーになる感じ。
書かれている内容も、現実にあったと思われるエピソードから虚実曖昧なものまでありますが、読んで楽しいから、ここではそんなことは気にしません。
例えばアロマテラピーにはまったときのエピソード。各種オイルや道具を買いそろえ、本格的にアロマテラピーにはまった時。ふとしたきっかけで素敵なアロマ生活が一瞬で崩れてしまった。その瞬間の描写におなかがよじれる。
あるいは読書をしているとき。ごくごくありふれた読書中の描写のはずが、気がつくと怖いことになっている。
この「気がつくと」の瞬間が、岸本さんのエッセイの一番の読みどころだと思っています。
岸本さん編訳の短編集「居心地の悪い部屋」のあとがきに
昔から、うっすら不安な気持ちになる小説が好きだった。読み終わったあと見知らぬ場所に放り出されて途方に暮れるような、なんだか落ちつかない、居心地の悪い気分にさせられるような、そんな小説。
(中略)
何か一つ話を読んだあと、そんな気分になれたら嬉しい。もちろん、すっきり爽やかな気分になって、自分の立っている地面のゆるぎなさを再確認するような読書体験も素晴らしいけど、もしも小説を読むことが電車に乗るようなものだとしたら、降りたときに元いた場所と同じところに立っているのではつまらないじゃないか、とも思うのだ。
「居心地の悪い部屋」p210〜211『あとがき』
とあります。
岸本さんのエッセイは、いつの間にか知らない場所に連れていかれるけど、そこには意外ときれいで心地いい景色が広がっていた、という感じがします。「こういうエッセイを書ける人だから、ああいう訳文が書けるんだ」と思いました。
岸本さんのエッセイを読むと、しなやかな心、しなやかな言葉がどんなものかがわかります。
格闘技を知らなくても十分面白い〜ロシアとサンボ
サンボ(Самбо)はソ連そしてロシアの国技である格闘技です。
わたしは格闘技のことはほとんど知りません。なので「関節技ってなに」「アルゼンチン・バックブリーカーってどんなの」などと調べながら読んでいました。
わたしは著者と面識があり、それがこの本を手に取った直接のきっかけです。
この本ではサンボ成立・発展の歴史を中心に、ソ連のスポーツシステムの歴史も語られています。どちらも未知の世界なので、読んで驚きの連続でした。
サハリン出身の孤児、ワーシリー=オシェプコフが14歳の時に日本に留学、神田の神学校で学びながら講道館に通います。そして帰国後ウラジオストクで柔道クラブを設立。柔道にオシェプコフがアレンジを加え、さらにロシアの各民族に伝わるレスリング等の技が取り込まれ、サンボが形作られていきます。サンボは運動能力検定制度に採用され、ついには国技になります。
サンボはロシア人が作り出したものですが、日本には「廣瀬中佐起源説」という珍説があるそうです。この本の中で検証され否定されていますが、日本人にとって柔道が特別なものだからこそ、こういう説が出てくるのでしょうか。
柔道の影響を受けているサンボに対して、「柔道をまねて作ったもの」「日本柔道の焼き直し」という批判があるそうです。著者は歴史や技の検証、オシェプコフの技の写真や動画をサンビスト (サンボ選手のこと) と柔道家に見せ分析を依頼したりして、サンボは柔道の焼き直しではないことを示しています。この部分は門外漢にも面白かった。
著者は柔道・サンボ・ブラジリアン柔術の愛好者ですが、複数の格闘技を経験しているからこそ見えるものがあるのだろうし、それに加えてとても研究熱心な人だと思いました。
ロシアにとってのサンボがどういうものかを象徴するエピソードが出てきます。
現地取材のためロシアを訪れた著者は、シェレメチェボ空港からモスクワ市内に向かう途中、環状道路にサンボの看板が掲げられているのを発見します。その看板には青いサンボ衣を着た少年の写真と「Самбо」の大きな赤字、そして「健全な青年が、強い国家を作る」。これが約10メートル間隔で、10キロほど続きます。
そしてもう1つ。1970年設立の、現在ロシアで唯一の国立サンボ学校「サンボ70」のレポートが出てきます。ここは柔道・サンボによる教育を中心に、11年間の義務教育を行っています。サンボの授業は真剣そのもの。日本で格闘技を見慣れた著者から見ても高度な技を、10歳くらいの子供たちが使っています。
この学校のディレクターが「卒業生の多くは内務省、KGBなどの職員、軍人や警官として活躍してきました。サンボは男らしいスポーツであり、サンビストは危険な仕事に適した人材として重用されるのです」と語ります。さらに著者の「サンボ70は祖国防衛のためによき愛国者を育てているのですか」という問いに「その通り」と即答しました。
そして驚いたのがソ連のスポーツシステム。ソ連はオリンピックのメダル数で世界一、二を争う強豪国でしたが、国内でどのようにスポーツが奨励されていたかはまったく知りませんでした。
「労働および国防に備えよ」の頭文字を取った「GTO (ゲーテーオー)」という運動能力検定制度があり、国民はこれによって年齢ごとに定められたノルマを達成しなければならなかったこと。
アスリート向けの階級制度があり、これは競技力の向上だけではなく共産党の人事管理制度とも結びついていたこと。
スポーツの役割は、共産主義国家の優秀さ、共産主義イデオロギーの正しさを示す手段だったこと。
オリンピックの金メダル獲得数が国威発揚に利用されるのはソ連に限ったことではないと思いますが、それにしても凄まじい。
国家がスポーツを支援する例は多くありますが、あるスポーツの成立・発展の過程で国家の思惑が直接からむ例がどれほどあるのかは分かりません。
これはスポーツ全般に疎い人間の印象に過ぎませんが、格闘技以外のスポーツだとこうはならなかったような気がします。
ロシア人が作り出した格闘技だからこそ、共産主義イデオロギーと深く結びついたのでしょうか。
ひとつの格闘技が成立するまでに何があり、どういう思惑でそれが広まっていったか。
格闘技やロシア史の知識を持って読めばもっと踏み込んで楽しむことはできたと思いますが、知識はなくても十分面白かったです。
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豚ってなんなんだろう〜愛と憎しみの豚
豚は非常にありふれた食材です。ありふれているが故に、普段特別意識されることもない存在だと思います。また豚を忌み嫌う人々もたくさんいます。
タイトルにもある通り、愛されると同時に憎まれる豚の存在を追いかけたこの本。
自分は豚についてほとんど何も知らなかったことがわかりました。
豚肉を食べないというとまずイスラム教教徒を思い浮かべますが、ユダヤ教徒も食べないことは知りませんでした。
しかしイスラム社会でもかつて豚を食べていたらしいのです。それが「なぜ豚肉を食べてはいけないのか」になったのか、わかっている人は少ないようです。それはユダヤ教でも同じらしい。
直接豚に関わらない部分でも、この本で知ったことがいくつかあります。
例えば「ジャスミン革命」は、欧米人の勝手なネーミングに過ぎないこと。チュニジアではこのネーミングを「馬鹿にしている」と思う人々がいること。
1991年のソ連崩壊前後に、ロシア地域から100万人の移民がイスラエルにやってきたのですが、その中にはユダヤ人に加えてソ連からただ逃げ出したかっただけの「なんちゃってユダヤ人」もいたこと。
ユダヤ人とユダヤ教の関わり。血筋的にはユダヤ人でも非宗教的な人も多いこと。「(自分の) ユダヤ人としての立ち位置は、日本人が持つ宗教との距離に少し似ている」と語るユダヤ人が登場します。
チャウシェスクがいた時代のルーマニアと現在のルーマニアで、何が違っているか。共産主義が崩壊したとき、ルーマニアには対外債務がなかったのだそうです。これは国際社会では珍しいケースとのこと。しかし現在は借金まみれになってしまった。
この本の中で特に印象的だった言葉を紹介します。
世界各国の兵士たちが、同じ釜の飯を食べる時代がやってきたのだ。
(p324「終章 素足の豚—シベリア『チタ』」)
そしてもうひとつ、
「どんな手がかり、小さなことでも構いません。養豚、農業、何でも構いません。私は豚を追っています。豚にまつわる何かを、見つけ出さなくてはいけません。それなのに、では豚の何が知りたいのかと訊かれても、きちんと説明できない。でも、追っている。なぜ豚を追っているのか、本当のところでは私自身にも分かっていません。でも、追わなければいけない」
(p304「終章 素足の豚—シベリア『チタ』」)
著者はなぜ豚を取材しているのかについて、こんな風に語っています。
三重県出身の著者にとって「肉=牛肉」でした。牛肉文化の中で生きてきた著者が20代の頃に豚肉を愛する人たちに出会い、豚に対する認識が変わったことが、この本に至る旅のきっかけといえます。
この本の一番の読みどころは、小さなきっかけから自分が知りたいと思ったことを追いかけ、何ヶ月もかけて世界を走り回り、シベリアの果てまでたどり着いた著者のフットワークかもしれません。
「豚とは何か」という結論はこの本には書かれていません。ただ、豚と人間との関わりの深さ、豚を中心とした食と社会・歴史の関わりの深さがわかります。
食は人間にはなくてはならないものだからこそ、歴史・政治・宗教との関わりが深くなる。その深さが顕著に表れるのが豚なのかも。
愛されるのも憎まれるのも、人間との関わりの長さ深さ故なんでしょうね。
この本で取り上げられている国・地域はチュニジア、イスラエル、日本、リトアニア、バルト三国、ルーマニア、モルドバ、ウクライナ、シベリア。日本以外のアジアやアフリカ、南北アメリカのエピソードも、読んでみたかった。
余談
わたしにとっても「肉=牛肉」です。実家ではカレー・肉じゃが・野菜炒め、全部牛肉でした。牛肉でなければ鶏肉。豚肉はたまに使われるくらいでした。豚肉を日常的に食べるようになったのは、大学進学を機に上京してからです。
実家で食べていた数少ない豚肉料理をご紹介します。
材料
- 豚肉薄切り・プロセスチーズ
- 小麦粉・卵・パン粉
作り方
- プロセスチーズを拍子木切りにする
- 切ったチーズを豚肉で巻く。巻いたら楊枝で肉を止める
- 小麦粉・卵・パン粉をつけて揚げる
非常に簡単だけどおいしい。これは豚肉で作らなきゃだめです。
訳わからんけど面白かった〜青い脂
第3回Twitter文学賞・海外部門第1位になったこの小説。正直言って訳がわからなかったです。でもむやみと面白かった。
Twitterの投票で選ばれたこの本が面白い!!ー第3回Twitter文学賞まとめ – NAVER まとめ
お下劣お下品満載でグロも結構あるので、読む人を選ぶと思います。グロさで何度か「うへぇっ」ってなってしまいましたが、それでも面白くて読み進めていけました。
「青い脂」というのは、未来のロシアにある研究所で文学クローンに小説を書かせて生産される謎の物質…なんですが、結局これがなんなのか、最後までわかりませんでした。
文学クローンはトルストイ4号・チェーホフ3号・ナボコフ7号・パステルナーク1号・ドストエフスキー2号・アフマートワ2号・プラトーノフ3号。そしてその文学クローンが書いた作品も掲載されているのですが、これも訳がわからない。それぞれの作家の作品のパロディなので、ロシア文学に詳しかったらもっと楽しめたかもしれません。
そして後半はスターリンにフルシチョフなどなどが登場し、グロくてドロドロの世界が広がります。こちらの方が話としてはまだわかりやすかった。
一番印象的ですごいと思ったのは、短い挿話「水中人文字」です。これは松明を持って川に入り、その松明で人文字を作る兵士の話です。人文字は人々を扇動する文句を何キロ何時間にもわたって表現します。その泳者の一人、ロシア語文の重要パートを任される非常に有能な兵士の話なのですが、これが妙に心に刺さりました。
この話自体もあっと驚く方法というか状況で書かれています。
最初から最後まで訳がわからなかったけど、まあ別にいいか面白かったし、という気分です。
よいマネージャーの武器とは〜MBA流 チームが勝手に結果を出す仕組み
「レビュープラス」さんから「MBA流 チームが勝手に結果を出す仕組み」を献本いただきました。ありがとうございます。
長くスタッフとして働いてきて、リーダー経験のないわたしにとって、この本はまず「理想のリーダーはどんなものか」「組織を動かしていくために必要な力とは何か」を知るきっかけになりました。
「マネージャー」はどんな存在でしょうか。企業の構造を大きく「トップ」「マネージャー」「現場」と考えると、マネージャーは「トップの考えた戦略を、実現のための具体的な行動に落とし込んでいく参謀」にあたります。どんなに立派な戦略が立てられても、具体的に行動できなければどうにもなりません。
そして成果を上げようと行動しても、うまくいかないこともあります。そんなとき、うまくいかない原因が必ずあるはずです。因果関係を見抜き、問題解決ができるのがマネジメントコントロールです。
マネージャーの武器ともいえるのが
- 行動コントロール = マニュアルやひな形の作成などを通して誰がやっても同じ結果を出せるようにする。正確性と効率性の追求
- 結果コントロール = 売上や顧客満足度などの目標となる成果を設定し、達成する方法は各個人に任せる。個人による柔軟な対応が可能
- 環境コントロール = 組織の文化を作る根本的な要素をコントロールする。組織に人をひきつけ、同じ価値観を持つ共同体を作る
の3つ。組織のマネジメントは「行動」「結果」「環境」の3要素をコントロールし、最大の成果を目指すことなのです。
今まで色々な上司の下で働いてきました。いい上司もいればどうしようもない上司もいました。振り返ってみると、いい上司は確かにこの本に書かれたコントロールがうまくいっている人だったように思います。具体的に何をやるべきかの指示が適切であったり、トラブルが生じたときの問題の切り分け方、それに伴うアドバイスが上手な人など。その上司が意識していたかどうかはわかりませんが、「行動」「結果」「環境」の3要素をうまくコントロールできていたのですね。
そしてマネジメントコントロールの考え方は、組織だけではなく個人で何かをやるときにも応用できそうです。
資格を取るための勉強でもいい。自分が何かに取り組みたいとき、「自分一人の組織」をどうやって目標に向けて動かしていくか。目標達成のための戦略を立て、行動・環境・結果のそれぞれで具体的にどうすべきか考え自分を動かしていく。
「実行する自分」「マネジメントする自分」を意識すると、ただ闇雲に取り組むより上手にやっていけそうです。
もちろんここに書かれた手法をそのまま当てはめることはできませんが、セルフマネジメントのヒントとして役立ちました。
リーダー論として、(セルフ) マネジメントのヒントとして楽しく役立ちました。
レビュープラスさん、ありがとうございました。
PHP研究所
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「がんばる」と「がんばらない」は同じくらい大事〜働くオンナの処世術
気になる書き手のひとり、深澤真紀さん。これは編集者・会社経営者として20年以上働いてきた深澤さんの処世術をまとめた本です。
「処世術」という言葉にはあまりいい印象がありませんが、生きていく上では必要なことです。自分が頑張ったり誠実に対処しても、うまくいかないことは多くあります。そういう場面でこそ、処世術が必要になるのではないでしょうか。
深澤さんの仕事に対する姿勢は
「いちいちストレスをため込んで、自分を壊してはだめだ」
(p6「まえがき」)
に集約される気がします。どんなに輝いてても仕事で成果をあげても、自分を壊してしまったら元も子もない。自分を大切にしつつ、大事なところではがんばる、そういう姿勢だと思います。
この本のサブタイトルは「輝かない がんばらない 話を聞かない」です。これまでに出版された「『そこそこ ほどほど』の生き方 (単行本でのタイトルは『自分をすり減らさないための人間関係メンテナンス術』)」「考えすぎない生き方」でも提唱されてきた考え方です。
ポジティブ全盛の中にあって、かなり後ろ向きな提案が多く感じられるかもしれません。しかしわたしは「ああ、そうだよね」「こういうことは忘れちゃいけないよね」と、うなずきながら読みました。
その中で特に印象に残ったのは、企画会社を経営している深澤さんが仕事をする上で意識して続けてきたことです。それは「請求書をきちんと発行すること」なのだそうです。
何を当たり前のことを、と思われるかもしれませんが、
「請求書を発行する」ということを意識するということは、
①仕事の納期
②仕事の経費や売り上げ
③仕事の内容や質など、「仕事の始まりから終わりまで」を、きちんと考えるということなのです。
会社員の場合なら、「給与明細」が大事です。
「給与明細をちゃんと読めない」という人も少なくないでしょう。
自分がどういう税金を支払っているのか、どういう保険や年金に入っているのか、どんな手当をもらっているのか、それがわからないのに仕事をするのは、商品の値札も見ず、自分の財布の残額も知らないで買い物をするようなものなのです。
(p49「処世術10 大事なことは日常の作業に」)
勤め人のわたしは自分の仕事に対する請求書を書くことはありませんが、税金や年金のことはあまり意識したことないな、給与明細もちゃんと見ていないな、と反省しました。
そして、請求書を書くことはなくても、やるべきこと仕事をきちんとこなし、求められる成果を出すために、深澤さんがあげた3点は常に意識しないといけないな、と思いました。
深澤さんの書くことは「後ろ向き」と言われることが多いようです。この本の「おわりに」でも言及されていました。
しかしわたしは、深澤さんの姿勢は後ろ向きだとは思いません。
よく「前向きに、ポジティブに」と言われます。たしかに前向きであることは大切だと思います。でもなんで「前向き」というと、みんな同じようにポジティブだったりアグレッシブだったりステップアップしようとしたり、になろうとするのでしょう。
「前」って明確に決まった方角じゃないのだから、人によって「前向き」のあり方が違っていてもおかしくないのに。重要なのは「わかりやすいポジティブであること」じゃなくて「その人が前だと思う方向にちゃんと進めるか」ではないでしょうか。
だから他人から見たら「ものすごくネガティブ」に見えたとしても、本人が前に進んでいると実感できれば、自分がやるべきことがきちんとできて、自分をちゃんと守れれば、前向きだろうと後ろ向きだろうと関係ないと思います。
そういう意味で、わたしは深澤さんの処世術はとても前向きだと思うのです。
もちろん、「いつでもポジティブ・アグレッシブ」が性に合っている人はそれでいいと思います。でもそれが合わない人だっているはず。それに物事は自分の思い通りになることは少ないから、これまでポジティブ・アグレッシブにやってきた人でも、それでうまくいかなくなったりつまづく時が出てくるかもしれません。そんなときに深澤さんの処世術は効くかもしれません。
働いている間、ずっと同じ姿勢・やり方を貫かなくてはならない、ということはないはずです。
この本は日経ウーマンオンラインでの連載をまとめたものなのですが、ポジティブ・アグレッシブの代表のような媒体で、正反対とも言える処世術が連載されたのが面白いですね。
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発想の前段階でも役に立ちそう〜Evernoteとアナログノートによる ハイブリッド発想術
「R-style」の倉下さんの最新刊です。
倉下さんの本は、デジタル / アナログのどちらかに偏ることなく、必要に応じたスタイルを提案してくださるので好きです。
この本はアイデアの種を見つけ、それを育てて発想につなげていく流れを順を追って解説されています。
自分に取っては、前半のアイディアの種を見つける方法論の部分が非常に面白かったです。
この本は発想術の本ですが、自分にとっては発想の前段階、頭をいかに柔らかくするか、物の見方を変えていくか、の教科書として役立ちそうだなと感じました。
というのは、読みながら自分自身の「硬さ」を再認識したからです。
「はじめに」に
「アイデアなんて、自分には考えられない」
「アイデアなんて、自分には考えもつかない」
「アイデアなんて、自分には考えられるはずもない」
という言葉が出てくるのですが、自分がまさにそう。それどころか「そもそもアイデアってなんなんだ?」と思っているくらいです。
この本には「アイデアって何?」についての解説もあります。
普段の生活の中で自分は頭が固いな、と思うことがあります。そしてかなりぼーっとしているので、ぼーっとしている間にいろいろなことが過ぎ去ってしまう。
それで直接困ることはあまりないのですが、それでも大切な何かを逃しているのかもしれない、と感じることがあります。
やっぱり頭は固いより柔らかい方が絶対いいし、頭を柔らかくなって物の見方が変わってくると、それによってきっと世界も変わってくる。その結果、生活に楽しみが増えるかもしれない。
自分はかなりぼーっとしている、と書きましたが、もちろん毎日何も感じないで生活しているわけではありません。
ただ、何か感じたことを自分でつかむことが下手なだけかもしれない。
アイデア云々以前に、もっと自分が感じることに敏感になり、それを書き留める習慣をつけることで頭を柔らかくし、物の見方を変えるきっかけがつかめるかもしれない。
アイデア以前のところで止まっているのはちょっと情けなく感じますが、それを変えていくきっかけがつかめた気がします。
まずはメモを毎日書けるように、目や耳をもう少し敏感にしてみよう。
技術評論社
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「会社」のあるべき姿とは〜挑む力
ICT企業として国内一になった富士通の、現場のリーダーたちの働きについての本です。レビュープラスさんから献本いただきました。ありがとうございます。
読んで感じたことが2つあります。それは
- 富士通も変わったのかな
- 『プロジェクトX』のような現場ばかりなのかな
これらについて書いてみます。
まず「富士通も変わったのかな」という点。
十数年前の富士通は下方修正が続いており、経済雑誌のインタビューで責任について言及された当時の社長が、逆ギレとも開き直りとも責任放棄ともとれる発言をして一部で話題になりました。
※そのときの社長が何を発言したかについては「東洋経済2001年10月13日号」で検索してください。
「富士通」と聞くと今でもその社長の発言を思い出すくらい、自分にとってはインパクトがありました。
なので、この本に書かれた富士通と、自分の中にある、あるいはかつて語られていた富士通の姿のギャップの大きさに、正直戸惑いを感じました。
かつて低迷していた富士通と今の富士通の一番大きな差は何か。
この本に登場している社員には、その時期にも富士通で働いていたて、その社長の発言を直接目にした人がいると思います。
低迷の時期から現在に至るまで、会社として、あるいは現場の社員が何を思い何を捨て何を残し何を新たに取り込んだのか。
個人的には、その部分をもっと知りたかった。そこがわからないと、現在の富士通の成功が必然なのか「不思議の勝ち」なのか判断がつかないと思ったので。
そして「『プロジェクトX』のような現場ばかりなのかな」という点。
現場の皆さんは、本当にがんばってらっしゃる。頭が下がる思いがします。それは間違いない。
でも、がむしゃらに仕事に取り組み、成果を上げることははもちろん大切だし必要なことだけど、社内に「がむしゃらにやるだけ」しか文化がないとしたら、それは危うさも孕んでいるのではないでしょうか。
がむしゃらにぶつかっていくことが文化の中心にあること自体はいいと思います。でもその一方で、例えば常に冷静に物事を見て進めていく人、何でも一歩引いて見る人がいて、そういう人たちも社内で許容されている方が「強い」んじゃないでしょうか。
様々な視点、姿勢を持つ社員がいることの強みを、富士通は持っているでしょうか。そこをもう少し知りたかったと思います。
「おわりに」に、東日本大震災で被災した福島の工場の話が出てきます。従業員は自宅が被災しているにもかかわらず、率先して工場復旧のためにがれきを片付けました。このことについて社長が
従業員の面々は、自宅が被災しているにもかかわらず、工場復旧のためにがれきを片付けた。製品をお客様に届けるために、自分たちが工場を守る。こういう考え方が徹底していたことが、ものすごくうれしい。これは富士通だけではなく、日本の現場力、日本人の道徳である。世界に対する我々の強みだ
(p201「おわりに」)
と話しています。
おっしゃることは確かにその通り。でもその一方で、被災してもなお会社を守ろうとした従業員、従業員と一緒に被災した家族に対して会社はどう対応したのか。それが少し気になりました。
自分の中にあったイメージと実際の姿、これらの差を通して、富士通に限らず会社のあり方について考えるきっかけになりました。
レビュープラスさん、ありがとうございました。
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「わたし」って? 〜 これ、わたし
「たくさんのふしぎ」の1冊、さわだともこ「これ、わたし」。「たくさんのふしぎ」を読んだのは初めてです。澤田知子さんの作品を見るのも、これが初めて。
「これ、わたし」には34枚のセルフポートレートが掲載されています。服装はすべて青いタートルネックで、メイクと髪型、アクセサリーなどで変身しています。
人の印象は髪型とメイクでかなり変わるものだ、ということはもちろん知っているし、実際に変わった場面にだってたくさん出会ってきました。これは大人なら誰だってそうでしょう。
メイクは女性ですが、男性だって髪型で印象が変わる。めがねまで含めたアクセサリーで変わるのも男女同じ。
それでもそれを34枚連続で見たら、とても妙な気分になりました。「同じ人には見えない」写真がたくさんあります。しかしわたしはそこに映っている人は1人しかいないことを知っている。それはセルフポートレートという手法があることを知っているからだろうし、ある人がまるで違ったイメージに変わる場面を実際に知っているからでしょう。
「たくさんのふしぎ」は小学3年生以上対象の雑誌ですが、例えばセルフポートレートなんて知らない、人のイメージが髪型やメイクで変わる場面を知らない小学生がこれを見た時にどんな風に思うのだろう。
これだけの「同じ人に見えない同一人物の写真」を見て、その人が「その人だ」と思うのは結局何が決め手なんだろう、という素朴な疑問が残りました。
澤田さんの作品ではOMIAIが気になります。お見合い写真という、あの独特の写真をどう表現しているのか。
福音館書店 (2011-11-02)
余談
写真の内容からはそれますが、ぱっと見で「男性に見える女性」「女性に見える男性」は、何が「決め手」でそう見えるのか、これがわからない。髪型やメイクの有無、さらには服装でもない気がするのです。