カテゴリー: 読書記録
【読みかけ本】ニューロマンサー
第2部まで読み終わりました。
ここまで読んで感じたのは、非常に「スタンダード」な作品だなということ。
これは20年以上前に書かれているのに全く古さを感じないこと、自分がこれまでに見たり読んだりしたことのあるSF作品 (まんが・映画なども含む) に通じるであろうものをいくつか見つけたことが理由です。
SFにとって一種のパラダイムといえる作品なのかな、と。
作品自体に古くささは感じませんが、出てくるコンピュータなどは現在のものと比べるとクラシックな感じはします。でもそれは全く問題ではありません。現在のコンピュータはここに出てくるものよりずっと進化していたり洗練されているかもしれません。しかしクラシックであっても、それはそれで作品の魅力になっていると思うのです。
ところで「ニューロマンサー」は映画作品だとずっと思っていました。どういう文脈だったかは忘れましたが、最初にこの作品を知ったときに「ブレードランナー」とペアで名前を聞いたせいかもしれません。
過去に映画化されたことはないんですよね
SFを読み慣れていないのでちょっと時間はかかってますが、面白いです。
SFを読みこなす素地のようなものがもっと自分にあれば、さらにどっぷりと楽しめたかもしれません。その点は残念。
読了後、時間をおいて再読します。
驚きと楽しみは細部に宿る〜中二階
物語はどんな場所にでも宿る。日常の中に転がっている、本当にに些細な取るに足りない細かい物のなかにも。
この本は泡で満たされた炭酸水ように、日常のささいなことから世界が広がっていきます。人間の力を超えたものを描く壮大な物語の対極にある、ごく細かい、くだらないと言ってしまえばそれまでの瑣末なことの集積です。でもその瑣末さが、壮大な物語に負けず劣らずとても楽しい。にこにこしながら読んでました。
個人的には「ミシン目」 に対する非常な讃辞が気に入りました。確かにこれを考え出した人はすごい。ミシン目がなかったら、人はどれだけストレスを抱えてしまうか。ミシン目の偉大さなんてふだん考えもしなかったけれど、確かに大きく注を取って讃辞を送る価値があるものかもしれない。
このミシン目に関する賛辞は注にあったのですが、全体を通して本編より注を読む方が楽しいのです。注が非常に細かくて、ひとつひとつが独立したストーリーのようなもの。本編から注に脱線し、どこまで読んだかな、と確認して本編に戻り、程なくしてまた脱線。
まず本編を読んで、あとでまとめて注を読む読み方もあると思いますが、それだと読む楽しみはかなりなくなってしまう。
この本を読む主目的は脱線の楽しみを味わうことにあるのかも。
ただ、最初にあとがきを読んだのは失敗でした。ネタバレとまでは行かなくとも、物語の構造が最初にわかってしまったので。構造を知った上で読んでも十分楽しめたけど、本編を読み終わってからあとがきを読むことをお勧めします。
本のオビに「前代未聞の『極小文学』!」とありますが、確かにこんな小説は読んだことがない。読んだことがないしすごく面白い。とても楽しい時間を過ごせました。
白水社
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余談
ミシン目について書きましたが、紙にミシン目を入れたいなら実際にミシンにかけるのが手っ取り早く確実です。本来の使い方ではないし針がダメになってしまいますが。
珍獣との暮らしは難しい〜珍獣の医学
「メジャーな珍獣」うさぎの飼い主sazanamiです。
この本で言う「珍獣」は、いわゆる「エキゾチックペット=犬猫以外のペット」のことです。
両生類・は虫類からほ乳類まで十把一絡げなのです。乱暴な話ではあると思いますが。
著者の動物病院では診察対象のおよそ半分がエキゾチックだそうです。、割合としてはかなり高いと思います。犬猫しか診ない動物病院が大部分なのです。
最近は「猫と体重15kg以下の犬しか診ません」という動物病院もあるらしい。ある動物病院の開院告知の新聞折り込みチラシに書いてありました。
自分が横浜から三河に引っ越してきてまず最初にやったのが動物病院を探すことでした。問い合わせをして「うちは犬猫しか診ません」と何度も言われています。幸い診てくれる病院がみつかり、ずっとそこでお世話になっています。
この本には様々な動物の治療風景の写真が多数掲載されています。自分自身エキゾチックペットたるうさぎの飼い主ですが、他のエキゾチックペットについてはほとんど知りません。うさぎにしても、骨折したときの固定方法など、初めて見る処置もありました。
治療風景だけでなく、飼い主の生活風景や動物の関わり方も同じです。
例えば中型の猿の飼い主は、本気で猿を捕まえようとするときはバイク用のつなぎとフルフェイスヘルメットで挑むそうです。そこまで行かなくても扱うときは厚手の手袋必須、という動物もいる。
ゾウガメを飼うなら一部屋つぶす覚悟が必要とか、部屋で放し飼いされている、大きなリクガメの類は人間用のおむつをしていることもあるとか (部屋を汚されないようにするため。カメはトイレを覚えない)。
ちなみに「大怪獣空中決戦 ガメラ対ギャオス」の影響か、は虫類の血液は緑とか青だと信じている人がたまにいるそうです。彼も血は赤いです。
珍獣を飼うとは、なんと大変なことか。いや、飼うのが大変じゃない動物なんていないけれど。
著者は
珍獣飼育にトライ&エラーは許されない。
P96「命を『飼う』ということ」
と書いています。これ以外にも、安易に動物を飼うことに対して厳しい意見を書いています。当然のことでしょう。
珍獣だろうとなんだろうと人間の都合で飼い始めた以上、当然最後まで責任を持たなくてはなりません。
この本で一番考えさせられたのが、人間とかかわる動物の区分についてです。
人間と関わる動物には
- 産業動物 (食用・競馬馬など)
- 実験動物
- ペット
- 飼育される野生動物 (動物園・水族館で飼育される動物など)
があります。
さらにペットに関しては
- 犬、猫
- ペット用に生産されたエキゾチックペット
- 野生から捕らえられたエキゾチックペット
に別れます。
獣医業界でも「ペット用に生産されたエキゾチックペット」「野生から捕らえられたエキゾチックペット」は混同されるそうです。
「エキゾチックペットの飼育」の是非をよく問われるが、それを問う場合、「エキゾチックを飼う、飼わない」ではなく、「真の野生動物を飼う、飼わない」という議論が必要だ。
(P94「獣医業界でも混同されるエキゾチックペットと野生動物」)
また、映画「ブタがいた教室」のもとになった話は
食べ物としての豚と、ペットとしての豚が混同され、区別がなされていない例だ。
(P91「すべての命は等しく重い…とは限らない」)
という指摘がなされています。
エキゾチックペットには人工的に繁殖されたものと野生から捕らえられたものがいることはもちろん知っていました。しかしどちらも「エキゾチックペット」とくくってしまい、区別をしていませんでした。
そしてもう一つが「馴れる」と「慣れる」の違い。飼い主に「馴れる」ことと、飼われている環境に「慣れる」ことの違い。
動物病院というそもそもニッチなビジネスで、さらにニッチなエキゾチックペットを多く診る著者。正直儲かる仕事だとは思えません。しかし助けを求めてきた動物と飼い主を救うべく、他の動物ならどう治療するかを考えて応用し、人間用の薬を試し、新しい器具を作るなどなど、様々な方法を試す。
著者やうちのうさぎの主治医、そして多くの獣医師のエクスプローラーとしての姿勢があるからこそ、うちのうさぎたちの健康も保たれるのです。本当に頭が下がります。
エキゾチックの飼い主はもちろん、犬猫を飼っている人、動物を飼っていない人にもお勧め。
「自然」とは何か、人間と自然はどう関わるべきか、ということを考えるためのきっかけなると思います。
わたしたちは負けない〜音もなく少女は
ボストン=テランという、自分が全く知らなかった作家の作品を読みました。新聞の書評欄で見たのが知ったきっかけなのですが、やはりタイトルが非常に印象に残ったせいだと思います。
ボストン=テランはミステリ作家。しかしこの作品は「ミステリ」だとは思いませんでした。作品を一言で表すとすれば「ある戦いの記録」がふさわしい気がします。
主人公イブを始め登場する女性達に感じ取ったキーワードは「わたしたちは負けない」。
イブにせよ、イブを支えるフラン、そしてその周囲の人にせよ、読み進めるのが辛くなるような、不条理としか言いようのない環境の中、それぞれに自分 (たち) の力で不条理から逃れ進んでいく。悲惨な中でも力を合わせて前に進む姿から思い至りました。
この作品に書かれているベトナム戦争の頃のニューヨーク・ブロンクス。かなり悲惨というか危ない地域として書かれています。ブロンクスは治安の悪い地域として有名ですが、今も当時と同じような状況なのでしょうか。
読み進めるのが辛く感じるところもありましたが、それでも最後にはほっとしたというか、なんだか救われた気がしたのです。読ませる文章で、悲惨だけどなんとかみんな救われてほしい、と思い、読むのをやめたいとは思いませんでした。
登場する女性達の強さ、イブと写真の関わり。読んでよかったと思います。
文藝春秋 (2010-08-04)
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NO FUTURE, NO CRY!! 再び〜アナーキー・イン・ザ・JP
読むのが少々大変だった小説。主人公シンジの経験と、大杉栄が実際に生きた時代など、様々な時代や場面にあちこち飛んで、それを追いかけるのが大変だったからと思います。
大変な面はあったけど、小説自体は面白かった。現代のパンクス高校生の頭の中に大杉栄がよみがえる、という荒唐無稽と言ってしまえばそれまでかもしれないけど、でもその大杉栄に突き動かされるシンジのむちゃくちゃぶりにひっぱられて楽しく読みました。
シンジの頭の中の大杉栄と学校の世界史教師やシンジの兄が論争する場面が出てきます。これらの論争が個人的読みどころでした。
世界史教師との論争の中で大杉栄のこんなせりふが出てきます。
「〈浅い。いや、実に浅いよ。君はさっき、国を作るとかなんとか言ったね。その国って、いったいどういう意味なんだい? ネーションなのか、ステートなのか、あるいはカントリーか、ランドか、はたまたパトリオットか。はなはだあいまいだねえ〉」
(p83)
これに対する世界史教師の回答は「ネーション・ステート」、近代的な国民国家でした。
「国」と普段何気なく言いますが、その自分が口にした「国」が何を指しているのかまで意識することってない。そもそも自分の中で「国って何か」の定義ができていない。
普通に生活してる分には必要ないことかもしれませんが、例えば新聞などを読むときに「そこに書かれている『国』は何か」を意識して読むのはありかなと思いました。
全体を通して大杉栄の人生が展開されるけど、彼にに関するエピソードがどこまで本当かはわかりません。ヘミングウェイの「われらの時代」を訳したとか、パリでフィッツジェラルドとゼルダに遭遇した話とか。
その辺は「日本脱出記」を読めばわかるでしょうか。これも読んでみたくなりました。
大杉栄という人は、良しにつけ悪しきにつけ非常にスケールの大きい、人を惹きつけるものがある人なんだろうなと思います。シンジの兄と大杉栄の論争するシーンの直前に、これまでに映画や文学で、どれだけ大杉栄が取り上げられてきたかが列挙されていますが、それを見ても思う。
女性関係はだめです、こういう人受け付けない。
東京トンガリキッズにも出てきて、この作品でも叫ばれた「NO FUTURE, NO CRY (未来はないけど、泣いちゃだめだ)」という言葉。NO FUTURE 自体はセックスピストルズの歌詞に出てくる言葉のようです。
「NO FUTURE, NO CRY」、決して明るい言葉ではないけれど、でも心に残って不思議と励まされるのです。
「東京トンガリキッズ」とはかなり雰囲気が違っていたちょっと戸惑いましたが、微妙な湿っぽさとむちゃくちゃぶりが、そして登場人物のモデル探し (評論家とかアイドルとか政治家とか。実在の人物がそのまま出てるところもあった) が楽しかったです。
余談
日蔭茶屋って、今も営業しているんですね(会社の沿革には、さすがに日蔭茶屋事件のことは書かれていないw)。横浜の友人に会ったとき、おみやげでもらったお菓子がここのもので、まだ営業していたのかと驚いた記憶が。
いつ訪れるかわからない悲しみにどう向かうか〜ものすごくうるさくて、ありえないほど近い
この本を知った直接のきっかけは読売新聞の書評にでていたこと。内容もさることながら、タイトルと表紙の絵?が強く印象に残りました。「手」と「書き文字」から、ベン=シャーンを連想してしまいました。だいぶ雰囲気は違うのですが。
主人公の少年オスカーが9.11同時多発テロで父親を亡くしていることもあってか、東日本大震災にからめて語られる (この書評もそうですし訳者あとがきにも言及がありました) のですが、できるだけそういうことは意識しないで読むようにしました。登場人物達が様々な形で悲しみ、その悲しみが癒える過程にただ寄り添う感じ。
フィクションとはいえ悲しみに向き合うことはしんどいことであり、ボリュームもあるし読みやすい本とは言えません。しかしなんとも表現しようのない心の揺れが残る小説でした。
その揺れがどこから来ているかというと、登場人物達が発する言葉です。生きること、考えること、そういう根源的な活動に対する問いが複数の人物からいくつも発せられます。そしてふるえ、泣いたり惑いながら、最後に悲しみが癒えていく。その生々しさに揺さぶられたのだと思う。
物語の最後に9.11同時多発テロ後に何度もテレビや新聞に映し出された「世界貿易センタービルから落ちる人」の連続写真が出てきます。その直前で、主人公のオスカーがもともと持っていた連続写真を並べ替えるシーンがあり、並べ替えられたあとの連続写真が載っているのです。その連続写真を見て、わたしは言いようのない衝撃を受けました。「あり得ない」順序に並べられた連続写真を見て、なぜ自分はそんなに衝撃を受けたのか。
自分が普段読むスピードだと、通勤時間に読んでへたすると2週間で終わらないボリュームですが、時間をかけて少しずつ読むより一気に読む方が向いている小説だと感じました。年末年始休みに時間を取って読んでそう感じました。もし1ヶ月早く読んでいたら間違いなく「2011年の10冊」に入れていたと思いますが、結果的に読むタイミングがすごくよかったかも。
訳者あとがきで知ったのですが、映画の公開が近いのですね。見てみたくなりました。普段はそんなこと思わないのですが。
愛知ではミッドランドスクエアシネマで上映のようです。
NHK出版
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1999年発行の雑誌「東京人」を読む
ちくさこしょこしょ市で、約12年前に発行された雑誌「東京人」を買いました。
特集は「本はなんでも知っている。」。
「私流本の探し方」では、各分野について見開き2〜3ページのエッセイが掲載されています。その中から気になった言葉を引用します。
そう、本に限らず、何事も徹していれば、開いては寄ってくるものと、今さらながら会得する。
私流本の探し方[食]本は寄ってくるもの。 (矢吹申彦)
…だから、漫画を探すというより、自分が探している世界を用意してくれている、そんな街や書店なら、まだどこかに潜んでいるはずである。
私流本の探し方[漫画]あちこちの棚に身を隠している。 (植田実)
つまり、古本に関しては、理工学系の本となると、こころもとない状況だといわざるをえない。
コンピュータ関連というジャンルは「犬の一年」(普通の業界よりも七〜八倍のスピードで変化していく) といわれるくらいだから、古書という流通システムとなじまないのは、やむをえないのかもしれない。
私流本の探し方[サイバー]理工学系の本の命ははかなくて。 (遠藤諭)
本は出会いです。もちろん、これは本に限ったことだけではなくて、人だったり、場所だったり、物だったり、何にせよ御縁というやつだと私は思うのです。
とどのつまり、ブラブラ探し歩く時間とみつける眼力、もちろん体力。それが物欲道へのポイントのような気がします。おっと、それと御縁、出会いや勘もお忘れなく……。
私流本の探し方[絵本]御縁は大切にしよう。(土橋とし子)
国会議事堂の参院側別棟にある書店「五車堂」の店長、幡場益 (はたば・すすむ) さんのインタビューに、当時の五車堂の売れ筋本が掲載されていました。
取材は1999年初頭と思われますが、ラインナップは次の通り。
- 内藤克人「同時代への発言」
- 吉冨勝「日本経済の真実」
- リチャード=クー「日本経済回復への青写真」
- 三浦朱門「日本人をダメにした教育」
- マークス寿子「とんでもない母親と情ない男の国日本」
国会内に書店があることは、この記事で初めて知りました。「国会で在位三十五年 (当時) の『五車堂のおやじ』を知らないのはもぐり」とのこと。取材時も自民党の衆院議員が新人を連れて五車堂にあいさつに訪れていたそうです。
そして大宅壮一に関するルポ、これが一番面白かった。「質草の値付け」のエピソードと「歩きながら文章を書く」エピソードで、彼のすごさがわかります。
彼は若い頃大阪の質屋で商売見習いをしていたのですが、そこでは店の主人や筆頭の番頭が、衣類や時計などの質草を使って番頭や小僧に値付けの練習をさせていたそうです。ここでいう値付けは「担保としての価値に半年分の利息をつけ、質流れになってから売っても損をしないような値段を付ける」ことです。
かれはほんの見習いのうちから番頭や先輩を差し置いて、しばしば主人とぴたり同じ価格を付け、質屋として前途有望の折り紙を付けられたそう。
ルポを書いた鹿島茂によれば、この質草のエピソードが彼の仕事すべてに通じてくるとのこと。
そしてとにかくすごいと思ったのが、「歩きながら文章を書く」エピソード。彼は歩きながら頭の中に原稿用紙をイメージしてそこを一字一字埋めていったそうです。そして帰宅してから本物の原稿用紙にそれを移していた。年に五枚と書き損じしなかったそうです。歩きながら文章を考える人はよくいるでしょうが、原稿用紙をイメージして埋めていき、帰宅したらそれを移すだけ、という技ができる人がいるとは、そして年に五枚も書き損じをしない人がいるとは思わなかった。
他にも「総合翻訳集団」の話、モンテ・クリスト伯の翻訳エピソード、古地図を巡る井上靖とのバトルなど。とにかくエピソードひとつひとつが「規格外」で、目利きとして想像以上の人でした。
大宅壮一文庫は実際に行ったことがありませんが、文庫の目録が学生時代に通っていた県立図書館にあり、社会学のレポートを書くときにお世話になりました。
巻末の連載に「ふるほん探偵団」という、都内の古書店を紹介する連載コラムがあります。この号では葛飾区にある親子二代の古書店が紹介されています。そのうちの次男が経営する古書店は自動車・オートバイ関係に非常に強く、四十年代の名車のカタログ、社史、自動車雑誌を多く扱っている店です。
その店主の言葉
でもたまに悪いお客さんもいて、復刻版のカタログをオーブンに入れて、古く見せかけて持ってくる人もいるんですよ(笑)
には思わず笑ってしまいました。オーブンを使うと古びさせることができるとは発見でした。やりませんがw
特集は時代に左右されない内容ですが、小特集やコラム・広告は時代を感じます。ヨーロッパのミレニアム祝祭記やNTTドコモ・東京電力の広告が特にそう。
発行された年代にかかわらず、新しい発見もあって楽しかったです。
本の「よりよい読み方」について〜再読:強く生きるために読む古典
今年初め、「強く生きるために読む古典」という本を読みました。
当初は著者のストレートな真情の吐露に圧倒されっぱなしでした。
今改めて読み返してみて、この本は「本についての本」であるだけではない、「生き方を示す本」であることを強く感じました。
この本で取り上げられているのは以下の9冊(作品)です。
- 『失われた時を求めて』(プルースト)
- 『野生の思考』(レヴィ=ストロース)
- 『悪霊』(ドストエフスキー)
- 『園遊会』(マンスフィールド)
- 『小論理学』(ヘーゲル)
- 『異邦人』(カミュ)
- 『選択本願念仏集』(法然)
- 『城』(カフカ)
- 『自省録』(マルクス・アウレーリウス)
それぞれについて、著者がどういう状況にあるときに読み、自分が何をそこから得たかが書かれています。
著者の考えをいくつかひろってみると
本当に「知る」というのは、それについてかけがえのない体験をすること、それとともに切実な時間を過ごすこと、それを「事件」として受け止めることだ。
(p30「『失われた時を求めて』ぼくは彼女を知っている」)
ブリコラージュという方法を用いれば、ぼくもまた、何度でも敗者復活戦を戦える気がする!
(p46「『野生の思考』半端で役に立たない、経験のゴミ捨て場」)
そして、もし「場違いなこの世界」を受け入れられたなら、そのときは、それまで「場違い」感ゆえに乗れなかった行為や、意味も価値も感じられなかった物事に、親しみや喜び、いとおしさや美しさを感じることだろう。
(中略)
執着もせず、拒絶もしない、また、冷淡とも違う。そんな優しい距離感のある関わり方、つきあい方が、ぼくらにも、きっとできるようになる。
(p134『異邦人』ポジティブな思想)
こういった文章から著者の生き方を無理矢理一言でまとめると「誠実に生きること」になる気がします。非常に野暮ではありますが。
著者は自分のことを「できそこない」と言います。「できそこない」の人がいかに生きていくか、という人生論にもなっているのだけど、では「優良」な人にはこの本の示すものは役に立たないのでしょうか?
そんなことはない、と思います。
「優良」な人だって、今の状況では「優良」でいられても、別の局面に遭遇して自分が「実はできそこないだった」と悟るかもしれない。落とし穴のない人生なんてないのだから。
もちろん「できそこない」の人について、この逆の状況だって考えられる。「できそこない」の人はどんなときでもどこまで行っても「できそこない」か、というと、きっとそんなことはない。
落とし穴に落ちたとき、そこから這い出して生を続けるために、あるいは順調なときでも不意に足下をすくわれることを極力避けるために必要なことは、まさに「誠実に生きること」なのではないか。
そしてもう一つ、この本からわかることは「偏見なく本を読むこと」「自分の考えで本を読むこと」の大切さ。
著者は本を読むことについて
ぼくは本を、自分が生き延びる助けになるように読む。無能で不器用で余裕がないから、それしかできない。
(中略)
けれども、「できそこない」のぼくに必要なのは、そんな読み方なのである。
(p11「武器と仲間」)
と書いています。この続きには、こんな文章があります。
たとえば、自分が考えていることや感じていること、あるいは使っている言葉が、どうしても周囲の人々と一致しないことがある。話をすり合わせようと気を使えば使うほど、ズレは決定的になっていく。
(中略)
そんなとき、マルクスの『資本論』を思い出してはいけないか。
(中略)
『資本論』は、もちろん経済学の古典だが、ぼくは勝手に「意思の疎通が難しい状況での対話の進め方」をおそわっているのである。
(p12「マルクスの『資本論』」)
こういう読み方に対して
「『○○』という作品はそういう風に読むものではない」
という人もいるでしょう。それが『資本論』のような本ならなおさら。
しかしどんな本にしても「絶対的に正しい読み方」と言うのはないのではないか。「よりよい読み方」はあるかもしれないけど「正しい読み方」はないのかもしれません。
読んだ本を本当に「自分のもの」にするには、そういう予備知識をすべて取っ払った上で「自分はどう感じるか、どう考えるか」だけに向き合っていく必要があるのかもしれません。自分の感じたこと、考えたことに誠実に本を読む。
著者の本の読み方は、自分にとっての「よりよい読み方」を極めたものだと言えるでしょう。
特に古典を読もうとするとき、実際これはかなり難しいことだと思います。
古典でなくても、ある本についてのレビューなどを読んでしまうと無意識に自分の読み方がそれに引っ張られてしまうことがあると思います。
すでにある評価を頭に置いた上での読書もひとつの読み方ではあるけれど、本当にその本に向き合うことにはならないかもしれません。
この本のもとになった日経ビジネスオンラインの連載「生きるための古典 〜No classics, No life! 」に取り上げられた本を少しずつ読んでいます。それは今後も続けていきますが、今回この本から得た「誠実に生きる」「偏見なく本を読む」も、これから自分が生きていく上でのキーワードにしていきたいと思います。
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心にふわりと灯りがともる〜遠い町から来た話
この本を知った直接のきっかけは、豊崎由美さんのこのツイートです。
これを見る直前に、この本の訳者岸本佐知子さんの「ねにもつタイプ」を読んでいて、これがすごく面白くて彼女が訳した本を読んでみたいと思っていたときだったので、とてもいいタイミングでした。
手帳ともうちょっとうまくつきあえるかも〜クラウド時代のハイブリッド手帳術
来年の手帳が出そろい、雑誌でも手帳術の特集が多く組まれる時期になりましたね。
実は手帳術の本を読むのは初めてです。雑誌の手帳術特集もほとんど読んだことがありません。